鹿友会誌(抄)
「第三十二冊」
 
△兒玉高慶君を悼む
 柴平村唯一の素封家として知られたる氏は、十月五日突然脳溢血の為めに四十二歳を 一期として不帰の客となられた。
 武道奨励の恩人として、且つ人格者として、郷土の敬慕を一身に集めた氏の逝去は、 其の余りに突然なる為めに、其の赴を耳にせる者をして、等しく愕かしめた、君は剣道を 中山博道氏に学び、柔道は講道館嘉納門下に入って五段の免許を得たる人、兒玉道場済美館 を建設して、日夜武道の奨励に尽し、本郡の武道をして県下に名を為さしめたのであった。
 
 君の武道的声価は村をこえ、郡をこえ、国境をこえて行った。古来武道の達人として剣道に すぐれ、柔道に秀でた人士は少くなかったであらう、然し剣道柔道共に併せて達人の域に 進んだ人は、実に指を屈する程に稀である。宮内省に於ける御前試合には、彼の達人として 知られたる西久保弘道氏と渡り合ひ、畏くも陛下の御目に止まり、警該(謦咳か)に接するの 光栄を担ったのであった。君は剣道柔道共に五段であって、嘗て試合には敗れたことがなく、 未だ元気旺盛、剛勇の程も奥知れぬものがあった。
 
 君は武道の傍ら一面には、柴平村小枝指の地主として農民の指導に専心努力し、良き地主 として又郷土の青年の指導者として人格、玉の如く、郷人の崇慕のまととなってゐたもので あった。
 かくして郷土人及び門人一同に惜まれて逝った君の葬儀は、十月十九日に挙行され、武道に 関係ある人、なき人数百人の会葬者が参列せられて、故人を追想し、涙新しきものがあった。
 我が鹿友会に於ては、先年宮川村長として郷里のため活動されし阿部藤助君を喪ひ、今又武道 の達人として世に誇るべき兒玉君を若くして喪ふ、実に哀悼措く能はざるものである。こゝに 謹んで弔意を表する次第である。

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