鹿友会誌(抄)
「第三十一冊」
 
△贈従五位石川伍一君略伝
 石川伍一は慶応に年五月、秋田県鹿角郡毛馬内町に生まる。父儀平、母種市氏、伍一 その長男たり。
△九歳(明治七年)盛岡に出て仁王小学校に学ぶ。
△十四歳(明治十二年)東京に出て芝攻玉社に入る。
△十六歳(明治十四年)下谷島田篁村の塾に入り、漢学を修む。
△十八歳(明治十六年)輿亜校に入りて、清語を修む。
 
△十九歳(明治十七年)夙に東方の志ありしが、時事に慨し渡清の志已み難く、此年 父の許を得、上海に赴き、海軍大尉曾根俊虎に従ひ、清語を修め兼て清国の事情を調査す。
△二十〜二十三歳(明治十八〜二十一年)天津を経て北京に赴き、再び上海に帰りて、楽善堂 に寓し、又荒尾精氏の麾下にありて、漢口に留まる、此間賈業に託して四川省に入り、行くゆく 地理を察し之を図写し、清吏の疑ふ所となり、獄に投ぜられしも弁疎大に勉め辛うじて厄を免る。 当時、邦人にして蜀の険を冒せしもの、極めて稀なりし也。
△二十四歳(明治二十二年)北京公使館附武官海軍大尉關文炳氏の知る所となり、その委嘱を うけて、支那内地を遊歴調査す。即ち、蒙古の境より西南下して洛陽長安の旧都を過ぎ、襄陽 より舟行漢口に到る。即ち、長江以北の支那本部の地は、概ね足跡を印せり。
 
△二十五歳(明治二十三年)此より先き、父儀平夙に四方に志あり、郷を出でゝ京阪及び支那 地方に至り、事業を試みしも、事志と違ひ、明治二十二年家産を蕩尽して挙家東京に移る。 伍一、之を聞き孝心已みがたく、一先づ帰朝す。此年再び關大尉に従ひ渡清し、大尉の清国 軍事諜報の事業を幇助す。
△二十七歳(明治二十五年)關大尉賜暇帰朝に際し、乗船出雲丸玄海灘附近にて覆没し難に遭ふ。 伍一要務を以て上海に駐まり、帰路を異にしたるを以て難を免る。報を得るや愴惶帰朝し(四月)、 關氏の後事を処理し、又海軍参謀部の嘱託を受け、關大尉の報告を纂修す。
 海軍少佐井上敏夫氏、關氏に代りて公使館附武官となるや、其請に応じ三度清国に赴く(十月)。
△二十八歳(明治二十六年)五月、井上少佐と共にジャンクを艤装して芝罘を発し、金州半島より 大孤山を経て朝鮮沿岸に至る。この間、具に辛酸を嘗め、詳細に沿岸を調査す。思ふに日清の 危惧漸やく切迫せしため、之が準備をなせしものならん。
 
△二十九歳(明治二十七年)引続き井上少佐の下に諜報に従事す。四月、軍令部第二局長島崎大佐、 清国を遊歴して天津に来り、伍一の勤務振りを見て大に之を称揚し賞を与ふ。
 日清国交危機に瀕するや、天津に在りて同志と共に諸方面の情報を蒐集し、大に活躍する所あり。 支那官憲、早くも伍一等の行動に着目し、国交断絶して小村公使、荒川領事一行の引揚に際し、 伍一が久しく天津に在り、且つ公使館附武官の下にあって官憲に面識あるを以て、其の独り留まる の危険なるを慮り、共に帰国せんことを勧めたるも、伍一肯んぜずして曰く、帝国の危機に際し、 一人の適地に留まるものなくんば、何を以てか敵情を審かにするを得んや、不肖、清国に在ること 前後十一年、困苦に堪へ、危険を冒し、拮据精励、少しくその国情に通じたる所以のものは、 今日あるを期すればなりと。自ら一身を犠牲にして残留するに決し、支那官憲の眼を瞞まさんがため、 態と一たび乗船し、夜に紛れて窃に船を脱出し、服を変じて適地に竄入し、密かに偵察に従事せしが、 遂に天津城内支那客機に於て、直隷総督李鴻章軍の手に捕へられ、天津西門外に於て銃殺せらる。 その刑場に臨むや、従容として色を変ぜず、銃声三たび起り、初め胸腹を穿ち、更に鼻下を貫くに 及んで、自若として斃れたりといふ。
 実に明治二十七年九月二十日なり。
 
 是より先き、伍一単身適地に留まるや、八月二十四日海軍 編輯書記に任じ、大本営幕僚附訳官を命ぜらる。然かも固よりその際、書を拝するに至らず。 伝へ聞く、豊島沖の海戦は、伍一等が支那送兵の挙を偵知し、之を報告したる結果なりと。
 国交旧に復するや、明治二十八年十二月伍一の遺骸を収め、青山墓地に葬る。葬儀一切、将校の 礼に準ず、後、故ありて麻布光林寺に改葬す。
 戦後、論功行賞に際し、伍一の功に依り、父儀平に対し、特に金二千円を賜はる。明治二十八年 十二月十五日靖国神社に合祀せらる。
 昭和三年十一月十日、従五位を贈らる。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]