鹿友会誌(抄)
「第三十冊」
 
△東北研究の意義
 東北自身には、別に固有の文明があるやうに考へられる。深浦や十三の港が外国貿易で栄えた 時代があるらしいから、私などは、曾て東北の文化は輸入文化で、それらの交通が齎したものと 思ってゐた。又アイヌの地名が沢山残ってゐるため、古いアイヌの文化が浸みこんで、東北文明 の基をなしたものであらうとも考へました。イタコ、モリコ、オカンサンの信仰も、何となくシャマン の宗教と結びつけて考へられ、アイヌを通じ、又直接にその影響をうけたかとも考へてゐたのですが、 最近になって、段々に必ずしも外国からの借りものでないといふ証拠が出て来ました。
 露国の学者などの研究では、第一シャマンズムは男のシャマンの力が強く、日本のやうに女の方を 主として居らないし、又目の見えないのをイタコにするのは、北アジアに少ないことであります。 そしてイタコの唱へる経文は、みな京都以西から入って行ったのでありました。それで、或ひは職業 が北から入り、経文は内地かと思ふとさうではなく、やはり元来、その土に産したもののやうで あります。かゝる特殊な信仰、イタコを中心としての宗教 − 恐らくはこれだけでも、地方々々で 精確に調べがついたなら、比較宗教の世界的学問の上に大なる貢献であります。
 
 私の見たところ、東北の文化は、二つに分れてゐます。即ち日本海沿岸と、太平洋沿岸とでは、 要素に差があり、或は之を出雲の筋と、伊勢の筋といった者もあります。方言の比較などでも 判って来る事でありますが、言語の流伝にも明かに新旧二つの筋があり、さうして末で混合して 居ます。日本海沿岸の方は中央に近く、一番奥の中心となる所は津軽でなく、もっと南の南部(領)の北部 である様に思はれます。鹿角はその地理上の位置から、文化史研究の上に非常に興味がある ところであります。
 もし私に、東北で何処か一部を選定して研究せよと、時間と費用を与へるならば、決して、 今晩限りのお世辞でなく、私は鹿角郡か若しくは気仙郡を選ぶでありませう。
 
 次に土着の問題ですが、歴史に載ってゐない重要な一つの事実は、東北の移住は、想像以上に頻繁に 層をなして久しく行はれたといふ事であります。
 国史の記録にある後三年戦以来の二回か三回の移住以外に、其後も地方的に見ると、何回にも人が はいったやうに思はれます。其結果、いくつもの社会層が僅かの時を隔てゝ、織り込まれてゐるの であります。関東以西では、先きに入った人に力があって、入用の労力補充をあとから企てる といふ様で、新旧移民が一かたまりになって融合して居りますが、東北の方は、後から入った人は、 先に入った人を制禦して居ります。即ち東北のいくつもの層では、一番底がアイヌとくっついて ゐる様に思ひます。中央部以西では早くより労力の過多といふことが生じましたが、東北では、 冬の稼ぎがないのに、何時も労力がまだ足りない。そして最近の資本家を招いて、今の エキスプロイテーションに相当するものを、昔からやらせて居りました。
 
鹿角の民俗考

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