鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△關達三君を憶ふ
 予は一たび分袖の憂にあひ、爾来屡々書信の間に往来を継続して居たが、再び秋田市に於て 君と親みを厚うするを得るに至りしことを非常に喜べり、
 君、偶々厳君の不幸に逢ひ、平素孝心深き身に取りての最大打撃なりしも、公私常に其の分を 明かにするの君は、措置総てよろしきに叶ひ、愈々内務省に転勤するの機会に接した、
 君、将さに地中のものにあらざるの端を開けり、自他共に欣快に堪へず、然り君は既に 帝都活動の一人となれり、孜々倍々勉むる処ありしを以て、忽ち上司の知るところとなり、 正しく将来あるの一人となりしなり、
 予上京して君に逢ふ毎にその成功を祈り、傍ら其の健康を祈ることを怠らざりしが、 君も亦深くその意を諒とせられしものゝ如し、併し君の精励は果して帝都の朦たる塵烟裏に、 その健康と両立を得べかりしや否や、予の胸中には当に一の疑を挿みつゝありき。
 
 内務省監察官室に其の名声を博しつゝありし君は、大正十年二月池田書記官の東京市役所入と共に 擢んでられて、市の要位の就けり、君、之くとして可ならざるなく、忽ちにしてその熱誠と力量とを 一般に認められた。
 当時予は、君の将来の為、市役所入を遺憾と考へたりしが、古より士は己を識る者の為に死すといひ、 又立身は自己次第ともいふ事もあれば、平素周密の君として、恐らく相当の熟慮断行せられしものと 思ひかへし、嘗てこの事に言及したることなかりき、
 爾来君と相見ることの機に乏しく、市役所に僅か二回の面会を遂げしに過ぎざりき、然るに君の健康何分 勝れぬといふことを耳にしたから、数次書を寄せてその安否を尋ねたが、大したことのないやうに報じて 呉れる、併し何分心の底に気のおける様な感じがして叶はなかったが、偶々大正十二年九月 の大震火災が勃発した、驚いて書を寄せてみると、纔に身を以て免れたらしい、而して之が病気の為には 甚大の毒をなしたものらしい、又さうある筈だったに違ひない、その後は不親切といはれゝば正しく 不親切不誠実といはれると、正しく不誠実だが、予も亦、自己の腎臓病やその他公務の関係から一向に 通信を怠って居た、

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