鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△關達三君を憶ふ   秋田市助役 戸崎順治
 予が始めて君を知ったのは、実に明治四十二年七月にして、即ち予が官吏として始めて 郡部に奉職せる時なりき、当時君の厳君は郡衙の会計官吏として在職せる関係上、君と 相識るの機会も早くして、且又深きをも加へたり、君と相見るや、予を刺激したるものの 大なるものの一はその謙譲の態にして、一はその堅実の相なり、爾来交際を重ぬるに従ひ、 君の周密なる学究的態度とその不断なる実行勢力とは、予をして敬愛の念を厚からしむるに 至れり、彼の一些事の如き養鶏に対する態度と功績との如きは、明かに君が性格の一端 を証明したるものと思はるゝが、苟も君を知るといふ人であったら、必ず予と感を 同じうするであらふと信ずる。
 
 遺憾なのは、君はその健康の完全ならざる事である。夫故、一旦高等学校を半途退学 したのも無理はない、又静養の為、身を養鶏に托して健康の回復を計られたのも尤なことである、 併し注意深き君の静養は、漸次効を奏して、多少社会的貢献をゆるす様になった、 偶々厳君は老齢静養の趣旨から決然退官をするに至った為、後任の物色に思を凝したる予は、 君を推すの最も適良なることを決心した、蓋し君の性格の理路整然、用意周到なるのみならず、 厳君の後任として鹿角郡自治体の財務を料理するの本意たるを信じたればなり、予は直ちに 懇談して君の同意を得、愈々共に郡治に膺るの愉快を実現するに至った、当時所員の勤務 頗る弛緩の気に充ち、従来の惰力を緊縮するの必要に迫り居れるが、角を矯めて牛を殺すの 拙を演ずるも亦面白からずとして、君の助力に依り改善の策を実行するに力めたが、 之を手始として君の精透なる頭脳は、公私に於ける予の立場を助けたことは、実に莫大で あったことを感謝する、併し予の一身の事情は、この熱誠にして有力なる援助者と永く鹿角の 郡治に尽すことを許さなかったのは、今以て遺憾の甚しさを感ずるが致し方がない、 明治四十四年十二月官を辞した、随て鹿角の郡会、花輪の郷をも去ることになった。
 
 前後三年も世話になった、而も恩顧を受けた知人の郷土を、少しでも悪し様にいふ義に於て 忍びない処であるが、元来花輪の地は、高尚な娯楽に乏しく、従って酒と女とに接近する 機会が多い、即ちだぶ(酌婦)、だぶ屋(料理屋)遊が頗る盛である故、旧家とか資産家 とかいふ方面の破産は、大部分の源をこゝに発して居る様に思はれた、
 然るに君の性格は全然かゝる堕落と相容れず、或時は憤慨し、或時は痛飲して、只管之が 改善救済に意を潜めて居った、個様な次第であるから、土地の親女の乏しいことは、自然の 帰結で致方がない、只々一面、公務に忠実なるの傍ら、一面自修と養鶏とに余念がなかった 為に、実に郡鶏の一鶴といふ観をなした様に思はれる、
 而しこの鹿角郡を去った後は、渡邊達夫・渡部民治・大山修一郎等諸君の部下として 活動した筈であるが、何れも君の性格と力量とに感服せられたり、由来、君は県庁幹部の 認むる処となり、一躍県属として庶務課に入り、主に財務を整理すべき重任に当ったが、 その手腕力量は勿論群を抜き、而もその人格高潔にして熱誠が溢れて居るから、時の課長 石黒英彦君抔の信用抔は、実に非常のものであったことを記臆する、

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