鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△『石田の大叔父さんを』憶ふ
 それでゐて、いったん仕事のことになるとか、将来の計画のことになると、あくまでも組織的な、 実証的なものでなければいけなかったやうである、空想的に考は、どこまでも排斥されるのであった。
 従って、思想なども、メタフィヂックなものよりは、実証的なものをとられるのであった、(晩年の 宗教生活はその点で矛盾する)それで、世間の人々が食はず嫌をしてゐる。社会主義の科学的な学説 などについては、あの年輩でありながら、随分理解をもって、をられたやうである。
 『理論は、どうしてもそこまで行かなくてはならないが、その変革の方法が可成り研究されねば ならない』といふことを、口にされるやうであった。
 旅行されないときは、あの洋館のテーブルへ坐って、よく書を繙いてをられた。
 人来ればこれと談じ、人去れば端然として書を読む、あるひは鳥露に弓に、あるひは漂然として旅人となり、 禅門に提唱をきゝ、光風霽月をともとし、清らかな生活を送ってをられたことは、人の知るところである。
 
 わたくしは、正月やすみを二週間一緒に送り、雨のふる晩、あの玄関まで送って出て、『身体を大事にしろ」 といって下さった「をぢさん」に、では「御大事に」といって、さやうならをしたのが、永久のお別れとなった のである。
 
 病が重っても「正路を呼ばないやうに」といってをられたさうであった、丁度わたくしたちの学年試験の ころであったために、学業を廃してはいけない、といふ御心配からのやうであった。しかし何うしても、心配で ゐてもたってもゐられなかったわたしは、「ヤマヒオモシ………」の電報に、狂人のやうになって かけつけた時、また恢復しかけてをられたので、「来ないやうに」といってをられたわたしが顔を出しては、 亢奮さしてはいけないと思って、お逢ひしないで帰って来たのであったが、再び電報に接して、行ったときは、 もう白骨となって、線香の煙のユラめく中にあったのである。
 
 わたくしの顔をみると、「ょばさん」を始めみなさんの、あたらしい涙がさんさんとして流れるので、 わたくしは、いやが上にも涙を我まんして、かうした因縁を物かなしく、仏前に坐した。
 「をばさん」は、私をあはせないで、名残惜しいといはれて、あたらしい涙を泛べて下さったが、 さうなることゝは、誰しも信じなかったことである以上、この一つの死に対して、ひとしく切ない涙を 心に禁じ得ないのみであった。

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