鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△『石田の大叔父さんを』憶ふ
 「をぢさん」はもう、あの世の人になられてしまった、「をぢさん」のいろいろなことが、次から次へこと なつかしく心に偲ばれてくるごとに、そのなつかしさが、悲しい序曲として、やゝともすれば心を 曇らしてくれる。
 京都の庭に、山茶花の咲いてゐるころ、比叡颪が浅寒いころ、「をぢさん」はわたくしたちの世界から 去られてしまった。
 あかい椿の花をかへてる中に、五十ケ日も行ってしまった。  行かれた日は、日日に故くなるが、心の思ひ出は、新らしさを失はないでおらふ。「をぢさん」のおすきだった、 もろもろの地の景勝は、ありし日のまゝに美しく、静かにこの初夏を迎へてゐることであらふに、 又南禅寺の提唱も、あの大きな樹々の中にかこまれた静寂の中に、その日のやうに始められてあるであらうに。
 
 「をぢさん」は、もう「仏」になられたのだ。
 こゝろの中で、幾度か思念しても、もうこの世ではお目にかゝることが出来ないことになってしまった。
 「をぢさん」
 いくらお呼びしても、もう「いらへ」がありえない。
 この失はれた人に対する物かなしさは、いく度もいく度も胸にこみあげてくる。
 「もしも、生きてをられたならなァ」といふ心が、喜につけ、かなしみにれて、次から次へと起ることであらう。
 穏やかな、晴々した、あから顔の丈夫さうな「をぢさん」の姿が、目の中にありありと浮んでくる。
 あゝ、けれども、もう諦めなければならない。
 そして、一生を清く美しく送られた「をぢさん」の生き方にならって、その教へられたことを守って、 これからのわたくしの歩みを進めることにしなければならない。
 もう又、百ケ日も近くなってしまった。
 
 「をぢさん」では、御瞑福を祈ります。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]