鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△『石田の大叔父さんを』憶ふ
 見る人にとっては「をぢさん」は、順潮以上によく行った人だ、といふかも知らない。
 けれども、わたくしの見るところでは、随分力行された人であり、あの当時、あれだけの自覚と、 あれだけの観察眼とをもってをられるとすれば、兎に角相当なところまで、漕ぎつき得た可能性のある 仁であったと思ふ。
 『当時の花輪などは大家といっても、みなその生活が質樸であって、小さい塩鱒の一切が、粟飯の 食膳に上ることは、月の中に沢山はありえないものであった。
 魚は仲々もって来られないので、随分な粗食で通したものだったが、あれでよく身体をいためなかった ものだ』といふことも、よくいはれたものであった。
 
 私の祖母が『八彌さんといふ人は、裏の二階で勉強してる人で、御飯時でなければ降りて来られない 人だった』といってたことを、思ひ出すが、当時の先生であった町井勝太郎さんから、先年おきゝしたが、 「珍しい程に出来た人であった」と言はれてゐたのと附合して、思ひあたるものがある。
 
 秋田市へ出ても、優秀なところを占めてをられたが、その頃、玉内の田村さんへ養子のことが決ってゐたが、 定四郎さんが生まれたので、やめになったとのことを話されて、その頃次男以後は、分家すると本家の 財産を減らすのだから、なるべく本家の財産を減らさないやうにして、独立とすれば、裸一貫で他郷へ 出るか、さうでなければ、婿養子となることであった、といふ、つまり限られた鹿角の経済組織の お話と一緒に語られたことを覚えてゐる。
 
 従って石田家へ入ってからも、出来る丈脛を噛らないことを考へ、又大阪時代にでも「自給自足」で、 本当に質素な生活をつゞけられたことを、おきゝして、やゝともすれば、緊張味を失ふ私の心は、 さういふ度にギリギリと引きしめられることであった。
 したがって外から見るとトントン拍子と見えるかも知れないが、内面的にその苦心の経路を覗って 見るならば、可なりに苦労をせられた人であると見るのが本当であると思はれる。
 
 始め、何うして「をぢさん」は、あんなにデモクラテックであるだらふと思ってゐたが、 さういふことをきくにつけて、成金者流のとんとん拍子屋と違って、人間味のある、「ぶらない」 平民的気分が、その日常の上に溢れたものであると思ふ心が、強められて来た。
 勿論人によっては、「身もと賎しければ、覆はんがために威張る」といふ努力に、浮身をやつすのもあるが、 さういふ気分は毛頭なかったことは事実である、従って、あゝいふ生活をしてゐる人としては、 兎に角、珍らしい態度をもってをられたのである。

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