鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△『石田の大叔父さんを』憶ふ
 「をぢさん」は、厳格な人であった。けれどもそれは、かたくなな嫌味のあるものではなかった。
 もしも「をぢさん」を頑固な人間だった、と思ふ人があるならば、それは叱られたことに対して、 弁疏が出来ない片恨みか、さうでなければ自分は正しいことをかう思ふてゐるのに、違ったことを斯ういふ、 とだけで、自分の正しいと思ふことを、口へ出しかねたほどの意久地しか持ち合はせてゐない人で あると思ふ。
 兎に角こっちの言ふことを、スッパリ言ひきって、そのことが筋が通ってをれば、「をぢさん」の 理屈は十分譲歩せられねし、比較して判断すべきものであれば、わかるやうに解説して下さる人で あったのである。
 不正なことはあくまでも嫌ひ、意久地のないことは相当に嫌なことであった。すなわち、附和追従や、 あまりに依頼心をもつことに対しては、常に戒ましめられるやうであった。
 
 さういふ私自身が小学校を出て以来、師範学校、それから現在に至るまで、依頼心で生きてゐるのだから、 もっとも教を守らないものであると言はれるであらふが、然しわたくしの依頼心は、学生としてみるときには、 それほど依頼心の強い方ではないといふこと丈は、「をぢさん」も認めて下さってゐたことであった。
 このことになると、わたくしを今迄育てゝ下さったのは、全く「をぢさん」のお力のみであることを わたくしは、深く感じてゐる。
 
 わたくしといふ一個の人間が、何うやら一人で生きて行けるやうにしていたゞいたことを、わたくしの永く 忘れ得ない感恩である。
 人間が死につゞき、資産は倒壊しつゞいた私の家に、只一人としてとり残された私は、東すべくも西すべくも、 あまりにもの哀れなものであったのである。
 その時に、心から育てゝ下さった「をぢさん」に対して、わたくしも亦、何ものかを心に期して勉強に 努めてゐたのであったが、今となっては、只涙がとめどなく流れることのみである。

[次へ進んで下さい]