鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△『石田の大叔父さんを』憶ふ
 わたくしが、始めて「をぢさん」にお目にかゝったのは、師範の四年の時、関西旅行があって、 東京に来たので、川村直哉さんにつれられて、東片町のお宅を訪ねた時であった。
 丁度、上京してをられた時だったので、いろいろなお話をしていたゞいたのであった。
 あの肩書と、あのやうな経歴をもった人だから、定めし厳格な人に違ひないと思って ゐたわたくしは、この初対面でスッカリそのイムプレッションが変へられてしまった。 「をぢさん」は、親切でやさしくって、心の底から人を案じて下さる方である、といふことが、 しみじみ嬉しく思はれた。
 そして、わたくしが、兄(正敬ぢい)に似てゐる、と二三度いはれて、小さい時の正敬ぢいのことなどを、 語って下さったことであった。
 わたくしの家に伝はってゐると思ふ、特徴のある眼や、祖父や常治をぢさんの顔に共通した多くの 点を見出すにつれて、「をぢさん」が私の顔から、その血縁の共通なるものを見出して、 そのかみのことを偲ばれるやうに、わたくしも亦、「をぢさん」の顔から、私の旧い記憶が、 マザマザと泛んで来るのであった。
 
 「今引越して間もないので御馳走もないが、向ふへ行ったら家へよって、おばさんと逢って行け」 といはれて、二時間ばかりで、あそこを去ったのであった。
 「をぢさん」の手紙ときたら、簡単極まるものであって、本多作左の『お仙なかすな馬肥やせ』 に劣らないやうなものばかりであるが、あって話をきいてゐると、なかなかどうして、ユモアを交へて、 面白いことを言って下さるのであった。
 
 手紙のことで思ひ出すが、私が師範の二年頃に「奈良家は総じて悪筆で困る、少し稽古して見ないか」 といってよこされたことがあった。小学校時代、可(丙)を通り相場にしてゐた私は、愕然として、 急所を突かれるの思ひで、それから随分習字に努力したが、遺伝恐るべしとでも言はふか、 未だにその悪筆境を出ないので、そのことだけは必ず心にかけて、なほしたいと思って、手習はつゞけて ゐるのであるが、あるひは、「をぢさん」の簡潔主義を組み立てた第一歩に、そんなことも入ってゐやしまいか、 といふやうなことも、考へられる。
 けれども、「お仙泣かすな」の中に、作左の心中須臾も忘れることの出来ない、人間愛のひらめきを、 汲むことが出来ると同じやうに、「をぢさん」の手紙の中に上ってゐることの中には、涙を誘ふ言葉が 含まれてゐるのであった、百本に近い多くの手紙(私のところにある)の中には、親シタシミの心、肉親愛の 誠が鏤めてあることを忘れられない。

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