鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△忘れ得ない追憶のままに   豊口精一
 誠に失礼な事ですが、工学博士だとか、男爵だとか云ふ肩書を附けたまゝでは、何と なく私には、筆が取りにくい、又色々の感じの大部分が削がれてしまふ様な感じがする 。
 其処で工学博士と云ふのも取ってしまひ、男爵と云ふのも取ってしまふ事として見る 、そうすると、こゝに残るものは何だらう。
 何もない? いや何も残らないんぢゃない、そこには別に何か肩書に代るべきものが 生れて来なければならない。
 では、其れは何んだらう、と色々考へた結果、これだこれだと思はれるものが唯一つ 脳に浮んで来た。
 
 「おぢさん」、これが即ち別な何かと云ふそれではなからうか?。
 それが或は不適当であり、且又余りに失敬な言葉だと云ふ人があるかも知れない、然 し私には、石田男爵と云ふよりも、又石田博士と云ふよりも、石田さんのおぢさんと云っ た方が、私の抱いて居る感じをシックリ其のまゝ表はし得る様な感じがする。
 で私はこゝに、おぢさん呼ばわりをさせて頂く事として筆を運ぶ事としよう。
 
 私がおぢさんに会ったり、又はおぢさんと話したのは、私個人としてゞなく、多くは 家庭的方面での場合が多かった、だから、おぢさんに対しては、主に此の方面からばか りの印象しか残って居ない。
 この方面から見たおぢさんは − 他の方面からの事を私は少しも知らない − 博士ぢ ゃなかった、男爵でもなかった、唯一個のおぢさんに過ぎなかった、それ丈けおぢさん は平民的であり、家庭的の人であったと思ふ。
 
 私が学校に入った当時の事、学校の様子や寄宿舎の様子をご通知した処、其の中に、 寄宿舎が昔の沼沢地を埋めて建てゝあるので、新入生の半数近くは脚気に罹って悩まさ れて居ることが書いてあったので、此の事に非常に御心配下されて、其の後再三脚気に 罹った様子はないかとか、折を見て下宿したらよからう、等と書いて寄越された。全く 慈母が我が子に対するやうで、勿体ない事と幾度も感謝したものである。万事がこの調 子で、多くの人々に接して居られた事と思ふ、又このお心持で同郷の後輩を導かれて居 られたのではなかったらうか。
 
 おぢさんが私と話せられる時は、よく「オーオー、そうかそうか、其れは宜かったね 」とか、「其れは困ったね」と云ふお言葉の出るのが常であった。これは真倒に情深い お心の底から溢れたお言葉の一部ではなかったらうか。
 不幸にして私は、お会ひする機会が大変少なかったので、どんな御感想や御思想を持 って折られたかはわからなかったが、あの特徴のあるお鼻とお額と共に親みのあるあの お言葉とをば、恐らく永久に忘れる事が出来ないだらうと思ふ。
 
 おぢさんは一方には、こうした情深いお心を持って居られたと共に、又非常に楽観 − 或は達観と云ふた方が適当かも知れない − 的であられたと思ふ。
 私が最近お会したのは十一年の春、台湾から帰って来る際であった、丁度亡父の骨を 持って帰る時であったので、悔の為めに態々停車場(京都)へお出で下された時であっ た、其の時のお言葉に、「死ぬのは詮方がないのさ、年を取れば誰だって死ぬのさ、そ れよりか生きて居るものがウマイものを食べて長命する様にしなければいけないのさ、 俺だっていつ死ぬのかわからないからな」、車窓に残されたこのお言葉が、こうしてペ ンを走らせて居ると、今更ながら思ひ出されてならない。

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