鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田閣下の御冥福を念じつゝ
 二月半に御訪ね申したら、その時丁度閣下の御眤近の方が御見えになって居て、奥の 間で御話中だったが、その方が『某といふ人があの世から、早くいらっしゃい、といふ 使をよこしたよ』と戯談にいはれたら、閣下は『いやいやそんな使ならまだ早いから、 御免を蒙る』などゝいふて居られたりして、あの時は妙に病気の話、遺言の話、死ぬ話 ばかりが話題に上って、その方が御帰りになってから、色々私の将来の方針等について 御高判を願ったり、又親しく何かと懇篤な御高教をいたゞいたりして、何時にも増して 心をきなく御話を拝承したが、それが図らずも閣下との最後とはなったのである。その 後一と月許御不沙汰してゐる間に、最早温顔を拝することが出来なくなって終った。せ めてそれと知れば、御入院中、今一度なりと御見舞申し上げたかったのだが、今や英霊 安らけく眠る比叡の麓、洛北眞如堂。『仏は生前、碁が好きだったから、私が行く迄、 私の代りに』との奥様の仰で、碁盤と碁石は其傍に埋められた。
 
 御痛はしの言の葉ぞ、未亡人とは誰が言ひし
 思ひぞ細る御手には、御心込むる観音経
 香花をとりて朝夕に、後世を弔ふ御墓参に
 珠数をつまぐる御姿は、よそに見る眼も涙なり
 香煙ゆらぐ眞如堂、烏鳴き交す森の奥
 深き茂みを分け行けば、露置きしげき八千草に
 すだく虫の音誰が為ぞ、更け行く夜半の松が枝に
 訪ふは嵐か松風か、眞如の月の影冴えて
 折しも聞こゆる梵鐘の、無常の響身にしみて
 無念無想にうすれ行く、其行末や何処なる
 南無や大悲の観世音、吉祥院の夜は深し
 
 閣下は、琵琶などにも御趣味が深く、往年薩摩琵琶の大家平といふ人の琵琶には非常 に感心して折られた。また、平家琵琶は古雅で中々いゝもんだから、もう一度聞いて見 たい、と申して居られた。私は錦心流の琵琶が最もよく、私の趣味と合致して、四筋の 絃の或は豪壮な、或は悲壮なあの音色を通して、世俗の利害や感情の煩はしい覊絆から 超越離脱し、古英傑の偉大な人格に接したり、又その故事をたづね、とかく濁り易く、 人知れぬ苦脳の絶えぬ此心を浄化し、哀しい時も嬉しい時も、我雁が音(琵琶)と共に 泣き、雁が音と共に喜ぶのを唯一の楽として居るが、私の琵琶が閣下の御栄聴を賜った ことも幾度、その都度、勿体なくも必ず御静聴を忝うした。
 或秋の夜、城山の一曲を弾奏したことがあったが、その謡曲の『夫れ達人は大観す』 といふ一句を御聞きになって『実にいゝ文句だ、世に処する心掛もそれだ』と仰せられ て、いたく御感動の御様子だった。それもその筈、此曲は幕末史を飾る英傑勝海舟が、 ありし昔を偲んで、西郷の為に自ら作曲し、時の薩摩の名人の弾奏を聞いて、感慨無量 、そゞろ今昔の感に堪へず、流石英雄の眼も悲涙に咽んだ、といふ由緒ある名曲である 。
 石田閣下は、春風秋雨、六十有余年の御生涯に右の句の意味を眞に悟了体得せられ、 思はず千古の名言だと仰せられたことであらう。百聞一見に若かず、実に経験は尊い。 『夫れ達人は大観す』の一句を座右の銘とし、我行先の守として世の荒波を漕ぎ渡らう 。
 
 春雨の音しめやかに、夜風にそよぐ山吹の雨になやめる姿もいと哀れに静智恩寺の鐘 ももう聞こえる頃だ、秋ならねども寂し京の夜や、また城山か石童丸なりと弾いて、去 にし日の閣下の御面影を偲び、琵琶の音に御冥福を祈り、後生をも弔ひ申さん。琵琶よ 、鳴れ。我歌につれて、孤燈影淡き閑窓の草むす宿に月はなくとも、更け行く夜半の春 雨に、咽ぶや加茂の小夜千鳥、糺の森に風寂し。南無阿弥陀仏。

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