鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田閣下の御冥福を念じつゝ
 思へばこれももう一と昔、それから三年目、高商卒業の前年、大阪にお訪ねした時は 、淀川畔の涼台で御馳走をいたゞいたが、この時位うまいシトロンを未だに飲んだ事が ない。序に天王寺公園の納涼博覧会でも見物して来たらいゝだらう、との御話で、道順 は細々と教へて下さるし、電車の切符迄いたゞいた。翌朝早く高野山へお供して、高野 電車を下りて紀ノ川を舟で下り、九度山から登って、金剛三昧院へ着いたのが日暮方、 この寺では勿体ない程の特別待遇をうけて通された部屋は、奥庭に面した離れの奥座敷 、筧の水の音、木の枝ぶり何となく脱俗禅味のある物寂びた所、寝室は別に三十畳位で 金銀の襖、布団といひ何といひ、いやはや浦島が女人禁制の竜宮へでも紛れ込んだ様な 気分で全く別世界、黒塗の足のついた台に果物が盛沢山に出されるやら、坊様は麓の若 様と見違へて代る代る御機嫌伺ひに罷り出るといふ歓待振。麓を出る時から閣下は御 財布を私に任せきりなので、失っては大変と後生大事に寝る間も布団の下深く忍ばして うつらうつら。遠近の木の間に見える法燈の影、何時しか消えて、昔を偲ぶ老木の梢を 渡る木颪の音も絶え、夜は更に沈む法寂の高野に、一夜の夢をまどろみもあへず、何処 ともなく私の様に聞える読経振鈴の響に眼を覚まされたのは、東の木立が薄霞の中に漸 く白み始める頃であった。早朝、苅萱道心、弘法大師の旧蹟や奥の院に参拝して、麓の 宿で御馳走をいたゞいて御別れ申して、私は東京へ帰った。
 全くの初拝顔にうちとけたこの御寵遇、私は此時位感動したことがない、その後我子 の様に御寵愛下さる数々を、母に話せばその都度母は蔭乍ら有難涙に咽ぶのであった。
 
 そののち私は久原鉱業の豊羽鉱山時代、北海道の博覧会の時、札幌迄御出迎して山形 屋に泊ったら、丁度少し前迄、当時青森県知事をしておいでになった川村様が、その部 屋に御逗留だったといふ話、その当時は札幌から定山渓迄、途中馬鉄だったが、馬車が 脱線した時など閣下自ら馬車を持ち上げていたゞいたのには、甚だ恐縮したこともあった 。この時は定山渓、登別温泉を経て、室蘭迄御供さしていたゞいた。
 
 其後浪人となって、京都の大学へ来てからは、何の因果か天難、地難、人難の為に引 続いて災され、苛酷な天の試練に曝されて居た頃も、月に一二度はきっと御邸を御訪ね して、奥様を始め御嬢様、坊ちゃんの仲よしにしていたゞいて、私にとっては家庭的団 欒に接する唯一の慰安所となったのである。
 閣下の御趣味は旅行と碁と弓で、弓も中々御上手だった相だが、殊に碁は洋舘の書斎 で本を見乍ら御一人で研究して居られことも度々あった。時には早朝から相國寺などへ 提唱を聴きに御出かけのこともあって、私が相國寺養源院の一室に借住の時分には、日 曜の朝早く「居るかな」などゝ御取次もなく気軽に御親ら私の部屋に御来光下さること もあったりして、日曜でもうっかり寝坊もして居れなかった。

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