鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田閣下の御冥福を念じつゝ   關琴一郎
 卯月も半、都の空は花盛り、さぞや京童は清水・嵐山に浮れ出ることであらうが、私は そんな気も出ないから、今日は我終生の恩人石田閣下の御鴻恩を偲ぶことゝしやう。
 
 比叡颪に鴨の川風肌寒く、京の春もまだ浅い弥生初の或日、私が一人、二階で机に向 って居たら、梯子がガタガタと何か落ちた様な音をしたので、のぞいて見たが何も落ち たわけでもなかった。それから二三日経った三月十日、此日こそは終生忘れることの出 来ない閣下御逝去の命日とはなって終った。憶へばあれは私への最後の御告げであった か。南無阿弥陀仏。生者必滅、会者定離の諺ぞ恨めしい。
 外見とは丸で反対に、とかく 薄幸に運命づけられて来た私は、この数年の間は、勿体ないこと乍ら、全く親子の様な 尊敬と情愛の念以て、月に一二度は親しく温顔を拝して、破格な御愛顧をいたゞいて居 た私にとっては、なおさら感慨無量、誠に痛惜の至りである。
 
 今から十四五年前、数百の無惨な死傷者を出して、鹿角を震駭さしたあの小坂の大水 火災の時には、腰の立たない病人であった母をかゝへて水火の中を命からがら逃れ出た その翌年、東京へ出て中学へ入ったが、引続く父の失敗から卒業の頃には何もかも人手 に渡って、借家は追立てられる位に行き詰って居て、親子が頭を集め、行末の運命をか こって夜を更かした事も幾度、とにもかくにも中学丈は卒業して、昼は中学の事務員、 夜は日本大学へ通って居た時に、救っていたゞいた方は、石川閣下であった。閣下は、 実に私にとっては七生迄も忘れてならない再生の恩人である。であるから、閣下から賜 った数十通の御尊翰は、家の宝として子々孫々に迄永久に伝へるつもりである。
 
 私が小樽高商へ入学して、愈出発するといふ四月の初の夜、母を始め皆上野へ見送り に来て、『松前といふ所は、昔は水盃をして出かけた所だ。国よりも寒さが烈しいだら う。身体丈は十分大切に気をつけなさいよ。あとに残った東京の家のことは心配しない で勉強なさい。まさか生きて行かれないことはあるまいから。』と、杖と頼む一人息子 を海を越えて遥に遠い旅へ出す母の別れの言葉は、涙に曇って行った、母としては全く 掌中の玉を取らるゝ思ひ、『私が行って終った後、生馬の目もぬくといふ東京に、親子 の者は一体明日から如何にして暮すだらう』と考へると、心すゝまず、後髪引かれて重 い袖の露忍ぶつらさの胸の内。住みなれた都の空は、次第々々に遠ざかる、上野の鐘もも うしばらく聞かれない、森には鳥が鳴いて居た。汽車は只北へ北へと闇の鉄路を一筋に 走って行く。栄あるべき登竜の第一歩たる此首途は、私にとっては涙の一場であった。

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