鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田男爵を偲ぶ   月居忠悌
 石田男の甥なる故奈良喜三郎君は、僕とは花輪学校時代の友であった。故に奈良君か ら、其の伯父君たる石田男のお話は、疾くに聞いて知て居た。僕はその当時、華族様と いふものは、たゞ佐竹様を見たことがあるばかりで、他に華族様は見たことはなかった 。その佐竹侯はいわゆる殿様式の人であったから、我が石田男も佐竹侯の様な風彩態度 であろうと、その御風彩態度まで想像して居たのであった。
 
 歳月は幾星霜と流れた。僕の上京した当時、石田男は大阪製煉所の長として居られて 、僕は鹿友会に入会しても未だその人を見なかった。しかるに、明治何年何月何日の日 であった。鹿友会例会の案内は来た。附記に曰く、『石田男の御馳走あり』と。その日 は稱好塾にも何の会だかあったけれども、日頃謦咳に接したいと翹望して居た石田男を 見るの光栄によりて、塾の方は欠席して、鹿友会に馳せ参じた、会場は彌生帝と記憶す る。
 
 会場には知己不知己、平素の例会よりも異常の盛会で充たされて居た。隅から隅まで 見廻して、田舎漢の特色を発揮して、石田男らしき人を物色して居る野人があった。そ れは僕であったのだ。当時の会の特色として群雄割拠的で、小坂は小坂、毛馬内は毛馬 内、花輪は花輪と団欒したがる傾向であった。その日も会場各所に割拠して雑談して居 たのであった。
 暫くして幹事は、着席、と宣言し、座定まり、幹事の紹介あって上座に始めて石田男 を発見した。多年想像したその人でなくて、城郭もなく、溝渠もなく、自大も自尊もな く、渾然玉の如き温乎近づき易く、親しみ易く春風駘蕩たる一好爺こそ、我が石田男そ の人であった。
 
 僕は考へた。石田男は貴族とか華族と云ふ人爵を超越した君子人である。盛徳の極致 はかくあるべき筈だ。伝統的の遺物たる階級観念を越た天爵の人である。世襲を許さぬ 天爵の人である。成程、人の尊敬は、自ら尊厳を示して、人に自らの尊敬を強要する必 要なき筈だ。自ら求めざる裡に自然に享ける尊敬こそ、その尊敬である筈だ。男爵、博 士とを兼備した人爵者としての石田男は、僕の眼より忽焉として滅して、神の道、聖人 の教の権化としての霊光を発する石田男を見たのであつた。
 
 その後、ある動機から御近附を忝ふし、特に岡本旅舘にお呼び出しを下され、座を左 右に賜はったこともあったが、今や幽明境を異にし、修養、景仰の標的は失はれ、心か ら哀しく思ふものである。終に、石田男は温乎玉の如き裡に御所思御断行の時は、平素 と全く別人の如く秋霜烈日的の半面も持て居られ、所謂寛厳能く調和された方であ ったと見受けて居る。今や斯人亡し。嗚呼。

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