鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田の叔父さんと私
 私は、叔父さんに対して、たゞ一つ不足を感じて居た事がある。それは、叔父さんが 職を辞されてから、まだ老境に入られたともみえぬのに、悠々自適、山水風月を友とし ても余世を楽まうとされた、あの消極的隠遁的な態度であった。けれども、よくよく考 へてみると、叔父さんに其晩年を社会的又は政治的活動のために送られん事を望むのは 、無理な注文かも知れぬ。技術家として三十年間過された叔父さん、華族としても、其 社会に交際も連絡もなかった叔父さん、虚偽と不正とを蛇蝎の如く悪まれた叔父さんに 、たとへからだが自由になったからとて、すぐ政治家になれとか、貴族院議員の運動を せいとか、社会問題のために活動せいとか注文するのは、的が外れて居るのかも知れぬ 。否、叔父さんの其晩年の生活は、外形こそ消極的隠遁的であったかも知れないが、其 精神は常に社会問題・政治問題の討究に注がれ、特に郷里の育英事業、文化事業の為めには 、非常なる援助を与へられた事から考へると、私の不足を感じて事を撤回しなげばなら ぬやうである。
 
 叔父さんが鹿友会の奨学資金として、数千円を寄附されたり、青年乃鹿角社や愛友団 の為めに、時々物質的後援をされたといふ事などは、社会事業に対して、常に注意を払 はれてあった証拠ともみるべきものだと思ふ。
 政治問題に就いても、立派な意見を持って居られた。日本の政党政治の腐敗、貴族 院の横暴に対しては、可なり不満を持って居られたやうであった。山本内閣は、人材内 閣であるから、腐敗せる政党に、一大鉄鎚を下し、貴族院の横暴を根本から膺懲するの に、最も都合の好い内閣であったのに、不慮の出来事のために、僅か四ケ月で倒れたの は、如何にも残念であったとは、昨年一月、小石川の家で、おめにかゝった時のお話で ある。此時は丁度、清浦内閣が成立して間もない時であったが、其組閣の具合が、如何 にも非立憲的であり、貴族院就中、研究会の領袖達の行動が、如何にも不謹慎であるの を、いたく憤慨され、三派合同して、護憲運動を起すのは、当然すぎる事だともいはれ てあった。私は、其外いろいろ政治問題に就いて意見を伺ったが、其卓見には、全く感 服するばかりであった。今にして思へば、其時は、私の叔父さんにおめにかゝった最後 の時であったのだ。
 
  叔父上の百ケ日を迎へて
 うちつゞく梅雨にかはかぬ涙かな

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