鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田様を追想して   住吉 田村定四郎
 私が石田様の御病気を知ったのは、二月の二十日で、翌二十一日、京都の御宅へ御見 舞に出た処が、京都病院で御療養中だが、経過も順当だとの御話であったから、一寸病 院へ御伺ひして帰宅した。其後、御経過がはかばかしくないと言ふ御通知を受けて居 ったが、社用で旅行を続けたりして、心ならずも、翌月の十日の午後に、再び御見舞に 御伺ひした処が、悲しい事には其日の正午頃、遂に御長逝遊ばしたとのことでありま した。さうして病院の寝台に安らかに永眠せられて居る石田様に、最後の御別れを申上 た次第です。
 
 嗚呼、私が昨日御伺ひしたなら、否今日の午前中に御伺ひしたなら、我が郷里の生れ で、偉人として、我々の先輩として、又平素特に御愛顧を受けた石田様に、御生前御目 に掛る事が出来たろうに、誠に遺憾の極みであります。兎角人間には後悔が伴ふが常で あるけれども。
 
 回顧するに、私が石田様に初めて御目に掛ったのは、確か十三四歳の頃で、独逸の御 留学も終へて御帰朝になった年、我鹿友会が歓迎会を開いた時でありました、而し私 としては、只御顔を覚えたに過なかったのです。次は日露戦争当時、出征の為め我師団 が大阪に滞在して居った時、根本一三兄と故阿部重太郎君と、私の三人が、当時三菱社 大阪製煉所の石田様が、大阪に御住ひであったので、一日御宅へ御招ぎを受けた際でし た。根本君や阿部君は近い御親戚で、之迄往復もあった様でしたが、私は初めて御宅へ 御伺ひしましたので、御夫人や御子様とも御目に掛り、御家中から厚い御待遇を受けた のであります。而し、実際親しく御話を伺ったり、又石田様の御人格に触れたのは、私 が明治四十年から大阪に職を需めて起居する様になってからであります。さうして、段 々御訪問が重なるに連れて、色々御親切な御指導も受けるやうになり、従って、失礼な 様だが、丁度叔父か兄にでも会ふ様な心持になって来ました。最も石田様の御実家と、 私の家とは遠縁で、祖父などは親類交際をして居ったので、或時石田様から、「実家の 近親は皆な遠くに居るし、君は幸ひ大阪だから、親類待遇をする」と仰言って下さった ので、思召を甘んずる事にして居りました。そして時々御伺ひしては、御夫人にも御目 に掛り、愉快に御話も伺ひ、心からの御待遇を頂く為めに、兎角長居勝でありました。
 
 私の幸福な事には、京都、大阪に石田様や、又子供の時分から御眷顧を得て居る内藤 様が御出で、常に此大先輩に接するの期会を得て居ります。さうして、温かい御容姿に 触れ、有益な御指導を受けて居るのです。其場合私は、常に小供の様な気分になり、年 と共に老ひて行くなどと云ふ悲哀を一掃して、実に愉快に気分になり、大に活気が出て くるので、自分の畏敬する一先輩の有難味をかうした方面にも感じて居るのですから、 今度石田様に御永別をした事が、自分に取っても、全く大きい悲嘆であったのです。

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