鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△石田の叔父さんと私
 叔父さんが郷里の育英事業の為めに、力を尽された事は、世の富豪が、或一種の政策 の為めにするか、虚栄の為めにするのとは、全然類を異にして、ほんとうに郷里を愛す る心の発露したものとみるべきもので、其の玲瓏玉の如き心事を思ふ時、私は、一種い ふべからざる感激に打たるゝのである。

 
 人は、其地位、境遇の変化するに従って、態度の上にも、自ら変化を来すものである が、叔父さんは何時、誰に会っても、ちっとも其態度を変へなかった。これは、何でも ない事のやうだが、円満な人格者でなければ、容易に出来ぬことである。華族さんにな らうが、博士にならうが、三菱の重役にならうが、そんな事は叔父さんにとっては、た いした問題ではなかった。華族さんになったがために、生れ故郷の言葉が出なくなった り、三菱の重役様に納まったが為めに、幼な馴染の顔を見忘れたりするやうな嘘は、叔 父さんには出来ぬ芸当であった。
 
 叔父さんは飽くまでも、正義を尊ぶ人であった。従って不正に対しては、一歩も仮借 しなかった。だから、技術家としての三十年間は、最も忠実に、最も勤勉に、其職に従 事し、如何なる方面からも、悪評を蒙った事は一回もなかった。
 私が叔父さんに叱られ通しであったのも、つまり此正義観が特に強烈に胸中に燃えて 居られたがためであって、私は叱られながら、いつも心服しなければならなかったのも 、さういふ理由からである。
 
 叔父さんの家庭の円満にして、常に和気藹々たりし事は、余所の見る眼も、羨ましい ほどであった。叔父さんは、職務以外の時間は、殆んど家庭に於て過されたやうであっ た。職を辞して、閑散の身となられてからは、よく旅行をなされたけれど、何といって も叔父さんの慰安は、一家団欒の楽にあった事はいふまでもない。
 叔父さんには、世間の多くの紳士にある如き、隠れたる生活、虚偽の生活といふもの はなかった。だから、叔父さんは家庭に於ては、善良なる主人であったばかりでなく、 郷党に対しては、親切なる指導者となり、国家に対しては忠良なる臣民となり得たので ある。

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