鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
△關達三様を憶ふ 小田島興三 優れた人格の傍に居ると、物に触れ時に応じて啓発されることが多く、知らず識らず 身の修養になるものだ。私が、達三様に親しく接して、御教訓を受け得たのは、一昨年の 春から昨年の春迄、一ケ年に足らぬ短い月日 − 而もその夏から私は、五ケ月許り郷里に 居ったので、精確に言へば僅か五六ケ月の短かい月日であったが、その間私は、いかに屡々 其の崇高な人格の発露に触れ、その卓抜な見識に服したか分らないのである。 古い「花輪青年」に、達三様と直哉様とが、何回かに渉って議論を戦はされたことがあったと 記憶してゐる。私の記憶にして誤りがないならば、直哉様が「花輪の若い者達は、だらしがなくて 生意気で、怠け者で道楽者だ。」と鋭い批評を浴びせられたのに対し、達三様は「いや、 さういふ者共ばかりではない。真面目な者もゐる。」と駁せられてあったと思ふ。太平洋の 彼方にあって、郷里の青年の気風を歎かずに居られなかった直哉様の御心も尊ければ、郷里 にあって真面目な青年の薫陶に心を砕いて居られた達三様の御努力も有りがたい。 この論争を読んだ時私は、「お二人共、私達後進を愛撫して居られるのだ」と思って、 感銘が深かったのだ。 「花輪青年」が「青年の鹿角」にかはってから(?)のいつかの正月号に(多分一昨々年)、 達三様は短かい感想文を寄せられた。その中で「郷里の人達は兎もすれば隠遁的に流れ易い。 日蓮主義的の気魄が足りない」といふ意味のことを言はれた。至言だ。 丁度その頃、遊惰と意気地なしとから、目さめてかれてゐた自分は、達三様の此の言を 知己の言と感じた。 小さい時から、よく達三様のお名前を耳にしてゐ乍ら、親しく御目にかゝって御話できたのは、 一昨年の春の某日が始めてであった。その時達三様が、鹿友会の幹事長になられたので、 会のことでお話申上げたいことがあって、佐々木彦一郎兄と二人で大崎の御宅に御伺ひしたのだ。 処が御目にかゝると、話が全く別のことになって、私が大いに左傾論を持ち出したのに対し、 達三様は社会政策を漸次徹底せしむることによって、その目的を達し得べしとなし、種々の実例と 細やかな推理とを以て論歩を進められた。そしてまだ結末がつかない中に、夜が更けたので急いで おいとまをして、やっと終電車に間に合ったのだ。 肝心の鹿友会についての話は、その翌日再び参上して申上げたのである。 |