鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
△關達三様を憶ふ 爾来幾度となく御伺ひした。御目にかゝるたびに、必ず多くの与へらるゝものを得た。私は、 私の望んでゐた人格を目のあたりに見るの幸福を持った。私の心は、泉の中に浸たされたやうに、 達三様の人格の中に包まれて、与へられる人格や見識や智識や思索の方法やを、できるだけ 味得し、訓戒せられ、感化せられることが多かった。 瞬く間に二ケ月は過ぎて、私は六月郷里に帰った。そして間もなく達三様が御病気に 罹られたことを聞いた。 達三様が駿河台の杏雲堂病院に入院せられてゐる頃、私も又盲腸炎で郷里の母家に呻吟してゐた。 『君の病気を聞き、弟の病めるを聞くが如く心痛してゐる』といふ御手紙 − 奥様が代筆せられた 御手紙を頂いた。私が起き上がれるやうになった頃、大地震がやってきた。さして達三様は御病身 を奥様の肩にすがって何日何夜を露天で過ごされた、と後でお聞きした。 「地震の時、無理をしたのが却って元気の出るもとになって、漸次回復してゆく」と、 後に仰せられたが、私はあの時から、地震が悪い、此の御無理が御身体のさわりになりはしまいかと、 悪い悪い予感を抱かせられざるを得なかった。 十一月になって私は上京すると直ぐ大崎に御伺ひした。達三様は臥せって居られたが、やがて 起きて来られた。痩せて見えた。その春にはどしどし未熟な議論を持ち出していゝ気分になってゐた私も、 その秋には何も言へなかった。御話を伺ひたいが、病気にさわるといけないと思って、可なり御遠慮 した。 その冬、御病身にもかゝはらず、私の卒業後の就職のために、種々御面倒見て下さった。達三様は 私に、官吏になるやうに極力すゝめて下さった。御好意に背くのは心苦しかったが、私は満洲に来たかった。 貧乏書生にとって、満洲は内地よりも住みよい処だから。 先頃、老父の病気見舞に帰郷したとき、とうとう達三様にお目にかゝれなかった。御病気にさわることを 恐れて、「よろしかったら御引見下さるやうに」と申上げたら、「今日は熱が高いから二三日中に」 と言はれた。間もなく私は郷里を去らなければならなかった。『達三様も春秋に富ませらるゝことだし、 自分も若い身の上だ。徒らに顔を見たがるのは婦女子の情だ。自分は何か仕事らしい仕事をして、 御土産話でもこしらへて帰ったら、その時こそはお元気な達三様に御目にかゝって、あの春のやうに 言ひたい放題のことを言はせて頂から』。そう思って郷里をあとにした。 若し達三様がかう早く御逝去なさるものと知ってゐたら、無理にでも押して御目にかゝって おきたかったが。これ吾が終天の恨みである。 東一様から御逝去のおしらせを頂いて、呆然として自失せざるを得なかった。涙流し乍ら、おくやみを 認めた。 『東一様。あなたのお父様はえらい方でした。あなたが今、うちのお父様はえらいと思ってゐなさるよりも、 もっともっとえらい方でした。あなたが段々大きくなられるに従って、だんだんお父様のえらかったことが お分りになるでせう。』
− 一九二五、三、二七、大連市大由寮に於て −
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