鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
△石田男爵の逝去を悼む 川村竹治 石田男爵の逝去は、まことに突然の事であって、自分が外遊の帰途、上海に於て始め てその訃音を聞いて、まことに驚き且悼んだ次第であった。 八彌氏は、自分より数年の先輩であった。吾々が花輪町の小学校に在学してゐるとき は、氏は既に秋田の中学校に在学して居ったやうに記憶して居る。 氏の秋田中学に於ける時代に於ては、学業操行共に優秀であって、同輩を抜いてをっ たと聞くのである。果せる哉。当時の県令石田英吉氏は、氏の頴才を認めて、その養子 とすることに至ったのである。 爾来氏は中学を終り、予備門を経て工科大学に進み、工学士の称号を得ることになっ たのである。 自分は明治二十一年笈を負ふて東京に出た時には、氏は大学院に居られた。越えて翌 二十二年自分は僥倖にして第一高等中学校に入学する事が出来た。しかるに自分は学費 を得ることができないのみならず、一家五人の生活すらも非常に困難であったのである 。 そこでいろいろ先輩諸氏の厚意によって、その援助を受けたのであるが、石田氏はそ の最も有力なるものゝ一人であった。 高等中学を卒業する間は、随分氏の厄介になった事は多いのである。その後、氏は独 逸に留学されて、益々学問の蘊奥を極められて帰朝され、一時大学の講座をもって居ら れたのであるが、その間に於ても、郷土の諸学生の誘掖指導につくされて、鹿友会の創 設及びその後の発達に関して尽力せられた事が甚だ多いのである。 後、大学を去って三菱の経営する精錬所長として大阪に赴任せられ、多年専心その経 営に従事して、顕著なる成績を挙げられたのである。 この間に於ても、鹿友会の事に関し、又後進者の誘掖に関しても常に心を用ひて、育 英の資金の方法を設くることは尽力せられ、卒先して数千円の金を鹿友会に寄附するな ど、種々なる貢献をせられたのである。 後、後進に道を開くの故を以て職を退き、閑地に就かれ悠々自適、或は旅行に時を用 ひられ、晩年を楽しまれたのであった。しかも体質壮健であって、殆ど病気になられたこ とはないやうに承知してゐるのであるが、突然逝去せられた事は、先輩としても鹿友会 の創設者及び援護者としてまことに痛惜の至りである。 今度の病気は旅行中に得られた様であるが、元来強健であって病気に経験がなかった ので、非常に苦しまれた事であるが、何しろ惜しいことである。自分も曾て腸チブスを 患らって四十日間休んだ事があるが、非常に苦しいものであって、石田氏の苦しみもま ことにさうであったことと想像する次第である。しかも自分が外遊中でなくて、在京し て居ったならば、生前に於て再び面会して、病気を見舞ひ、又従来の恩義を謝すること が出来たのであらうが、不幸にしてまだ帰京しないことであって、その事ができなかっ た事は、まことに残念なことである。 先頃、京都に行って未亡人を訪ね、弔意を述べ、故人の霊に対し礼拝した次第であっ たが、丁度その時は五七日の日であって、遇然であったがまことにいい機会であった。 我々鹿友会員は、氏の志を襲いで益々会の隆運を図って、生前の氏の厚意に報いたい ものである。(談) 四月二十五日。 |