鹿友会誌(抄) 「第二十七冊」 |
△石田男の事ども 内藤虎次郎 石田男は花輪の奈良氏に生れ、八番目の子どもであるので八彌と名づけられた。余よ りは三歳の年長だが、幼時郷里では相識る機会がなかった。小学校時分には、男は花輪 の小学校で育たれ、余は毛馬内の産なれども、尾去澤の小学校で育った。尤も其頃折々 比較試験といふものがあって、鹿角郡北半の各小学校の俊秀生を花輪の小学校に集めて 、試験することがあり、余も其の撰に入ったが、余は丁度男の令弟九助君(後に柳田氏 を冒す)と同じ位の年配であったので、男を親しく識るに及ばなかったのである。 男が幼少の頃、花輪に於ける俊秀の評判は非常なもので、よく出来る生徒の標準とも いふべく、他に俊秀者があれば、之を「八彌さまのやうだ」と言ふ程であった。その頃 はまだ昔の寺子屋の風が残って居り、児童等が「字いひかけ」といふことをしたもので 、「人べんに言べんといふ字を知って居るか」、「それはノブといふ字だ」などゝ問答 し、いひかけられた字を知らないと、負としてハヤされたものだ。これが殊に異った寺子屋の 児童との間に行はれて、負けた方は、その寺子屋の大恥辱と考へたものであるが、小学 校が出来てからも、異った小学校の生徒等が、途中で行逢ふと、この「字いひかけ」を やって、互に勝負を争った。花輪の小学校の生徒が、負けさうになると、「八彌さまを 出すぞ」といふのが、最も威力ある捨ぜりふであった。それで男は鹿角の少年中、最も 早く秋田中学に留学した一人となり、秋田中学でも、其の成績が抜群であった処から、 時の県令石田英吉君に見込まれ、其の養子となって、秋田の少年中、最も早く東京へ留 学した一人となり、虎門の工部大学校を最優秀の成績で卒業せられたのである。 余が工部大学校といふ、当時日本で一二といはるゝ西洋建築を始めてのぞいたのも、 実は男の卒業式に、親類の資格か何かといふことで、列席し得た為と記憶して居る。こ の大建築は、実は内部は音声の反響が多くて、祝詞も演説も満足に聞えなかったことも 、今に覚えて居る。 鹿友会が九段下の玉川堂の貸間で芽ばえたのも此頃で、三十七八年も前の事だから、 一寸隔世の感がある。ともかく男や、故大里文五郎学士などが、会の成立に骨折られた ことは、永く記念すべき所である。 その後、男は地方の鉱山に職を得て居られたが、間もなく海外に留学して帰られ、一 時渡邊渡教授の不在中、東京大学の採鉱冶金科で講義をされたこともあり、それから御料 局の技師として、大阪製煉所に赴任せられた。明治二十五六年の頃、余は故高橋健三氏 に従って、始めて大阪に赴いた折、男が谷町辺の寓居を尋ね、男も余を朝日新聞の社 宅に尋ねられたことを記憶して居る。余は明治二十七年から二十九年まで、高橋氏の秘 書役のやうな仕事を朝日社でして居った頃、相変らず独身でごろごろして居るので、と きどき男にあふと、内藤君の下宿屋ずまゐも久しいものだなァなどゝ、冷かされたもの である。勿論此頃は男は、その製煉所に於て電気分銅の冶金法を新たに試みて、学会事 業界では、已に有名な人物となって居られ、製煉所が三菱の手に移ってからも、依然と して主任技師を離れなかった。 其後、明治三十三年から三十九年まで、余は復た大阪朝日新聞に居ったので、秋田人 などの会があると、よく男と逢った。此頃は余もどうかかうか、人並になって居たので 、男も衷心から余が記者生活の小さき成功を喜ばれ、折々そのことを語られた。当時大 阪では男や、町田忠治君などが、秋田県人として推しも推されもせぬ人物であったの である。 たしか三十九年のことである。余は朝日新聞を辞し、外務省の嘱託を受けて、朝鮮、 満洲地方の調査に出かける前であったが、フト思ひ立って日光へ遊びに出かけ、小西旅 館に泊ったことがある。旅館の番頭は、余が大阪住居なることを識ったので、先頃大阪 の華族様で石田様とおっしゃる方が、御泊り下さいまして、何とかかんとか喋り立てる ので、余もその華族様は自分も御近付の方だから、御言伝でもあらば御伝へ申しましゃ うなどと、あしらって帰った。大阪に帰って、男に其話をすると、男はその時三菱の重 役寺西氏と同行であったが、氏は此の御つれは華族様だなどとからかふので、大きに弱 ったと笑話をされた。実際、男は何処へ行かれても、華族らしい顔をせられず、至て質 素にして居らるゝので、寺西氏はわざといたづらをして困らしたのであったらしい。 近年三菱を引退せられてからは、暫らく東京に居られたが、夫人の健康が東京の風土 に合はぬのと、先男爵の墓が東山眞如堂にあるので、つひに京都に晩年を送らるゝ覚悟 をきめられた。余が大正十一年より十二年にかけて、瀕死の重患に罹った際などは、屡 々病院にも宅にも見舞に忝なくした。男は至て健康な方で、旅行を好まれ、近年はしき りに各地の温泉を巡歴されたが、その旅行中に病気に罹られたらしく、京都府立医科大 学の病院で長逝されたのは、全く意外の事であった。 男の一生が極めて順調であったのは、畢竟その少時より非常な秀でた学才を稟け得ら れたのと、其の人格の円満であったが為で、爵位も、学位も併せ得られ、生活も安定し た上、郷里の後進をも世話せらるゝことが出来、何もかも満足であったが、ただ寿命だ けは比較的長寿でなかった、これのみは惜しむべきことである。 |