鹿友会誌(抄)
「第二十七冊」
 
△追悼録「石田博士小伝」
文久三年八月二十一日 秋田県鹿角郡花輪町四百二十四番地なる、今泉の「佐幸」奈良 又助氏の五男として、呱々の声を上げらる。
 小学に入るに及び、数学に興味を持ち、当時の篤学なる師、町井勝太郎氏より代数学 を教へられたる由、進んで秋田中学に学び、明哲の名を高めらる。
明治十四年四月 元工部大学校へ入校す。
明治十五年 石田英吉氏の養嗣子として入籍す。
明治二十年七月 帝国大学工科大学採鉱冶金科を卒業し、九月更に、電気冶金学研究の ために、大学院に入り、斯学の研鑽に勉励せらる。
 
明治二十一年二月 大学院を退き、小眞木鉱山会社に入り、実地研究の第一歩に入る。 八月に至り、小眞木鉱山会社の三菱会社に譲渡せらるゝにあたり、その侭、三菱会社に 移る。
明治二十一年十一月 三菱会社を辞し、『学術研究』のため独乙に渡航す。
明治二十二年二月 フライビルヒ鉱山大学に入り、主として冶金の学に没頭し、つぶさ に研鑽をつまる。
明治二十四年七月 同大学を去り、欧米諸鉱山をあまねく遍歴し、その経営状態を視察 して、十一月帰朝す。
 
明治二十四年十二月二十二日 御料局技師に任ぜられ、叙七等三級俸を賜ふと同時に、 御料局生野支庁大阪製煉所在勤を命ぜられ、その冶金課長として就任をなす。
明治二十五年二月 叙正七位。
明治二十五年二月 工科大学採鉱冶金科の授業を嘱託せられ、その研究を講義し好評を 博したりといふ。
 
明治二十七年 従来、何等利用の道を知られなかった硫化鉄鉱の含有硫黄から「硫酸」 を製出する方法を行った。このことは、これ迄高価な硫黄をもって、硫酸の原料にして ゐたのであるから、期せずして天下に刮目せられたのである。爾来、範をこれにとるも の多く出で、現在では、全く普及の状態に達してゐるのである。
明治二十八年七月 昇給して二級俸を賜はる。
明治二十九年十月 叙従五位。
 
明治二十九年十月 佐渡・生野両鉱山並びに、大阪製煉所払下げの結果、同時に三菱会社に 入り、御料局技師は非職を命ぜらる。
明治三十年四月 依願免本館ぜられ、九月に至り、大阪支店(三菱会社)副長に任ぜら れて同所にとゞまる。
 而して、同所の経営にあたるや、その電気分銅法の必要を痛感し、鋭意研究の末、 遂にこれを本邦産出の含有金銀粗銅の製練に適用したのである。今迄わが国の金銀を含 んだまゝの粗銅が、金銀をも銅の価で海外に持ち去られてゐたのを、これによって始め て防止することが出来、莫大な国益の増進を見るに至ったことである。この方法は、現 今わが国の各地でやってゐるものであって、何れも大阪製煉所の範によるものであると いふ。
 更に又、電気分銅法の副産物として丹礬タンパン(硫酸銅)の製造に腐心し、これも亦遂 に完成した。これ又本邦に於ける嚆矢のことであって、特に逓信省では、大規模にこの 方法を採用したのである。
 
明治三十四年四月 養父石田氏が黄泉不帰の客となられたので、悲しみの中に襲爵を仰 せつけられ、男爵となる。
明治三十五年 歩一歩づゝ我が鉱業界に貢献して来たその研究の油がのって、もっとも 難関とされてゐた『金銀精製の電気分解法』を完成せられた、その喜びや察するに余り あるものである。この法はその後、各製煉所で試みられ、その成績よく、今や全く全国 を風靡してゐるといっても誤ではない。
 殊に大規模をもって鳴る造幣局の如きは、この方法によってのみ、精良なる日本金・銀 を製出してゐる。(明治四十年以後採用)
明治三十五年十二月 叙正五位。
 
明治三十九年八月 大阪製煉所長となる。当時の大阪製煉所に於ける「石田所長口述」 の末段に、こんなことが書いてある。『一方には小鉱山産出の含金銀鉱にして、独立製 煉所に苦しむものあり、況んや南米、支那・朝鮮等より、含金銀の鉱石を購入するの計 画あらば、或運輸利便の地方に於いて、是等諸材料を綜合し、盛に含金銀を産出するの 製煉所を見るを得べきか、含金銀銅の所理に至りては既に「電気分銅」あり、於茲乎、 英国「ウエールス」に於けるが如き、米国東海岸に於けるが如き盛況を呈するを得ん、 是れ前途に於ける夢想なり、願くは我鉱業家諸氏、是を夢想に終らしめずんば、蓋し国 家の幸ならん』と。三菱はその献言を容れて莫大の経費を投じ、更に莫大の利を得た、 この影響によって日本の産銅率は勃然として高まり、その言が美事にも適中したのであ る。
明治四十二年二月 叙従四位。
 
大正四年二月 博士会の推薦によって、工学博士の学位に列す。
大正六年十月一日 三菱鉱業研究所長として東京へ転じ、理事としての優遇を享けらる 。
大正七年一月十日 叙正四位。
大正七年八月二十日 鉱業研究所長の職を退く。
 この後鋭意保健につとめ、あるひは松風涛声に閑を求め、あるひは温泉に訪ひ、奇峭 を讃し、その足跡を全国に及ぼし、時に禅堂に参じて提唱に耳を傾け、時に鳥鷺を囲ん では浮塵を忘れ、郷党の向上を喜び、静かに書を漁っては恬淡として真理を受け入れる のであったが、惜しいかな、正月中旬、熱海旅行の帰りから健康を害し、それがため 、白玉楼中の人となられたのである。
 
大正十四年三月十日 京都市河原町府立病院の九号室に一族の哀悼をのこして永眠せら る、行年六十三歳。
 仏名「眞禪院殿正心勝純居士」
大正十四年三月十二日 岡崎北御所町二十五番地の自宅から、住み馴れた家と別れをつ げて、涙の霊柩が菩提寺吉祥院へ向ったのであった。
 斯くして氏の生涯は、只管日本鉱業界への尽力をもって永く記念され、郷党哀惜の中 に、永く其俤をとゞめることであらう。
大正十四年三月十七日 特旨を以て位一級を追陞せらる 宮内省。
(奈良正路)

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