鹿友会誌(抄) 「第二十四冊」 |
△亡友追悼録「根本五郎翁」 ○長内の根本五郎翁 それから旅行好きな方で、随分方々の事を知ってをられました。明治十四年の春まだ き三月、玉内の小又のおぢいさんや、私の正敬ぢいと三人で上方上りをやったのだ相で すが、上方からまた行きすぎて、下方まで行ったので、約半年を費したといひます。奥羽 から九州までの旅であって、殆んど徒歩旅行の様でした。(乗りたくも汽車は東京と横 浜間、大阪と神戸間のものであたったといひますから)金に困るではなし、あっちこっ ちで好き勝手な見物をしたことでせう。殊に私の曾祖父がペロンコ組(呑みぬけ組の意 といふ)と尊称を奉った人々といへば、まだ想像の当らざるも遠からずといふところで せう。 二三年前の夏やすみに、当時に宿帳(昔は今と反対で、こっちの方で書付帳を持って 歩いたものゝやうです)を見せられましたが、随分と各地の銘酒を吟味したやうに拝見 しました。 斯うした中にも亦、持って生れた性格は、悠に「贅沢な彌次、喜多」といふ丈の格を 持ってゐたやうです。 鎌倉の某寺の境内に、日本唯一の四角な竹の一叢があるさうですが、可成大事に守ら れてあるのを、このおぢいさんが素早く飛び込んで小刀でポロリと一本せしめたのだと いひますが、それを切るときのまねをしてゐるのを見ても、頬の筋肉に力を満たしてゐ ました。 次に面白いのは、羽黒山へ泊ってサッカラニシを噛った話です。何ういふ虫の居処か 、私の祖父が羽黒へ上る前に、身欠鰊の味を思ひ出したといひます。そこで長内の祖父 さんが、町を探して一把を求め、風呂敷へ堅く包んで登山し、山の上へ宿った時、夜 中にコッソリ起きて、二人で思ふ存分平げたのだ相です。小又さんのおぢいさんは優し い方だから、知らさないでやったんだ、といってカラカラと笑った事が厶います。私はサ ッカラニシを蚊帳の中でシャブるの図、と題して時々吹き出す思ひで見てゐます。 健脚家で、江戸から長内まで三回とか歩かれたといってました。常に長いのをブチ込 んで、撃剣道具などを肩にしたといひます。 私がきいた中で、盛岡から家鴨二羽と撃剣道具と脇着の侭で足駄を穿いて、一日の内 に楽に長内まで来た話が偉い話です。そしてあの難所の七時雨だけは一寸骨が折れたと いふことをきゝましたが、斯ういふ話もまだあるのです。 それから健啖家でありまして、若い日の一日、湯瀬へ出かけて、一食一升の競争をし て、二食迄は完全、三食目には半分でやめたといふ実話があります。相手は故齋藤小太 郎さんと、村山勇彌さんであった相です。 酒豪の話では、四十前は酔を知らなかった、といふことでつきると思ひます。当時の 酒豪は、三升五升位をやったのだといひますから、それ等と相手をして酔を知らなかっ たといへば、余程であったでせう。 飯を食ふ前に、コップで一杯やらないと咽喉仏が承知をしないが、一杯やると七十五 を超えてゐても、テッパチ茶碗の巨大なもので、三杯位は楽であったのです。 また七十位までは、いくら酔ってゐても、馬にさへ乗ったら堂々と一気に長内まで乗 りつけた方です。 性質は至って淡泊で、物事に深く執着してゐることが嫌な様でした。義理堅い方であ ったが、女の様に細かいことにまで渡って、心尽しをする型の人ではなかった様です。 |