鹿友会誌(抄)
「第二十四冊」
 
△亡友追悼録「根本五郎翁」
○長内の根本五郎翁
 夜明島の清流、潺湲たるに浮世の塵を流してはゐたものゝ、あれで村長に四五回、郡会 議員に二三回出られて政客、根本の名をなしたものださうです。最後に出られた時は、 議長をつとめられました。けれども晩年は、閑散を好み、風月を友として、余生を送ら れましたが、坐食を好まず、よく掃除をなすったり、鶏を飼ったりしてゐました。
 偶々どなたか、訪ねられると、若い者でも老人でも、胸襟を開いて談じ、且つ興ずる のでした。
 
 「長内へ宿ると朝に困ります」といふことは、おぢいさんが未明に起きて、あの大き な家中を掃除することへの抗言です。そして若い者は誰でも起されるのでした。けれど もだんだんよくなって起さなくなって来たので、私などは、おぢいさんも開けて来た、 とジレッコしながら慕ってゐましたが、それはもう病む時の近かった反面であるとは物 悲しい話で厶います。
 おぢいさんは、また書をよくいたしました。大正十年にの書いた中の一枚は、 今小枝指の兒玉高慶さんのところにありますが、先 年中山白洞先生が来られた時、示されたら余程褒めてをられた、といふおはなしでした 。
 
 私共の長く生きてゐて戴きたいと思って希ってゐたおぢいさんは、宿命もだし難くし てか、大正十一年八月十三日に黄泉の客となってしまひました。弘化三年六月十二日以 来七十七年の間、打ちつゞいた鼓動の響の止る頃、私は入営の掟に従って、旭川の営に 月を見つめ虫を聴いて、悲歎の泪を流したのでした。行かれなかった不幸のため、その 面影を偲ぶ毎に、打たれる思ひがいたします。
 
 斯うしておぢいさんの事を書いてゐると、何だか長内の縁側で、お話をきいてゐる時 の様な心地がいたします。
 だがもう帰らぬ旅へ上った魂をどうしませう、只謹んで黙祷のまゝ擱筆いたします。 (一九二三、五、一)

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