鹿友会誌(抄)
「第二十四冊」
 
△亡友追悼録「根本五郎翁」
○長内の根本五郎翁オヂイサン   正路
 此の記録をものすのは、私よりも適した方が沢山おありのことですから、余程躊躇し ましたが、でも最後迄我侭をした私である丈に、筆を辷らしても地下の、お叱りがうす からうと、考へ直しまして、書き出すことに致しました。
 
 長内のお祖父さんのことは「報壽院一哲武勇禅居士」といふ戒名が、一番よく言ひつ くしてゐると、思ひます。
 ガッシリした中丈の鉄色がかった顔に、バリバリした品の良い白髯を蓄へて、木綿縞 に小倉の袴を穿いて出かけて行く様子や、いかにも短気者の様な煙草の吸ひ方をしなが ら、話に膝を乗り出す朴訥で淡泊なおぢいさんの、笑を惜しまない顔が、ハッキリ眼に つきます。何しろ、あの一徹武勇然たる気象にかゝっては、野狐禅共も相当に手古摺っ たことゝ思はれます。
 
 おぢいさんの好きだったものを単語にしますと、剣術、相撲、律儀者、滑稽者、馬、 日本酒、蕎麦、刀剣、書画、骨董の類、植木、庭石、武勇伝の様なものでせう。
 撃剣は、幕末の士気旺盛な江戸で鍛へた丈に、神刀流、戸田流、真影流の免許を持っ てゐました。巻物は今でも長内にあります。
 
 十四五の頃花輪へ出て、今の石木田小太郎さんの別荘になってゐたあたりにあった吉 田貞作さんの道場で、稽古をつけて貰ひ、盛岡へ出て、戸田流の桂勘七郎先生、真影流 の上村又藏先生の教をうけ、二十二の時に江戸へ出て、天野先生へつかれた相です。
 
 盛岡時代の事かと思ひますが、始め厠掃除をやらされたのださうです。是は随分骨に しみ込んだことゝ見えまして、其の時涙を泛べて「今に見てをれ」と、先輩を恨みなが ら稽古したといひます。そして忽の中に上席へ着き、江戸へ出ても、天野の塾で、非常 に幅を利かしたものだといひます。晩餐の席でホロ酔機嫌で、辛抱が大事だ、といふこ との例話に、時々してゐられた話です。一燈園の先生の様に厠掃除をよろこぶ人々 は別として、普通の人なら薬になる話だと思ってゐます。

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