鹿友会誌を紐とく
第二十一冊(大正9.8)
 
△「新気運を開拓せよ 『新修養』主筆 加藤咄堂」
 三たび鹿角に行ってきましたが、同地人には親しみを持っている。珍しくも訪れ来り し者に対して、親しみを失はぬ。山間は古風の残留地である。この一郡に日本風俗史の 縮写を見得であろう。
 
 龍飛の黒神、男鹿の赤神が十和田の女神を争ふ。八百万の神々は、岩木山で見物、黒 神は戦に勝って恋に破れ、女神は男鹿に遁れ、主なき十和田には八郎なる樵夫が入り込 み、これが南祖坊に追われて、八郎潟へ遁れ、これが男鹿の女神を得んとして果たさず、 更に仙北の田沢の女神と結べる。黒神の嘆息にて、地続きなりし陸奥と蝦夷と相離しといい、 八郎の逃出を止めんために七座山は、米代川を曲折せしめた。
 範囲の広く雄大な伝説であり、我が国では数ふない。
 
 更に新しき小坂、尾去沢の鉱山等があり、将来交通の便が益々開ければ、新しき鹿角 になり、堅実なる古風を失はす、新気運を開拓すれば、素晴らしい地域になるだろう。
 
△大正七年米価暴騰の為、一般国民の生活窮迫
 
△相川善一郎氏が松井須磨子のデスマスクをとる。
 
△「在阪一年 大阪 奈良一生」
 大阪人は実利主義、物欲充満している地域であり、会話も時候とか、その他の挨拶は 省き、直ぐボロイ(うまい)利益の有無交換である。語調荒っぽく、高声で語尾簡略過 ぎる。……さよか、そうでおま、おあがり等々……
 
 大阪人の気質と黒煙が代表する繁栄ぶりを記し、自分は余り好きでない旨を述べる。 しかし、太っ腹な所、精神修養に対して見向きもしない様でいて、公会堂の講演などに は満場、立ちの余地なき盛況は一寸奇跡を感ずる。
 
△奨学金事業
 収入 三千百六八円二十四銭 四名寄付、二名返金
 支出 三千四十円五十銭 九名、内一人死亡損金
 
△亡友追悼
 賛成員川口理仲太翁、青山七三郎翁
 会員小笠原勇太郎(小坂町長)四十八歳
   立山林平(理学士)三十一歳
   小泉政吉(画家、アメリカにて客死)三十三歳
   村山榮太郎(教師)四十六歳
   奈良雄次郎(古河工業)
   小田島義六、青山守太、関文治、小田島由義
 
△会員名簿(大正九年)賛成員三十一名、
 正員、東京七十五名・郷里八十九名・地方八十七名
 
△この年より宣伝広告を入れる。

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