鹿友会誌(抄)
「第二十一冊」
 
△亡友追悼録「立山林平君」
○林平君と僕   北秋田郡 花田芳夫
 私は、故立山林平君とは最も親しい間柄、何から云ふてよいか、一寸見当がつきませ ん、尤も中学時代から晩年までの交友で、二人の間に些の遠慮も行儀も無かったので、 何時逢ふても好き勝手な出放題を云ふて、他愛も無く笑ひ興じてゐたに過ぎんのです。
 
 元来あの男は、中学時代は余りに特色として云ふ可き点がなかったです。只数学丈は 滅法よく出来るので、これは入学の頃から頭角を顕はしてゐました。運動も色々好き で、大抵のものは一通りはやり出したが、テニス丈は、大学を卒業してからも時々やっ た様です。
 高等学校を卒業して東京へ出た時、僕の宿に十日許り居たが『其時大学の何科へ行く か』と聞いたら『先づ数学科の様なものだ』と至極呑気な答でした。且つ夫れに付け加 へて『実は卒業する当時迄は何をやると云ふ考へなしに居たが、愈々卒業すると云ふ時 に、教授から聞かれたので漫然数学といふて来たのサ』と先生、平気で居たのです。一 体が何か研究とか練習とかになると、随分熱心に出ますが、恁ふいふ事は至極呑気で、 クヨクヨせぬ性格でした。
 
 大学へ入学してからは、仙台時代の連中と代々木で自炊しましたが、これも格別な考 へがあるでもなく、只連中の誰かゞ『自炊しよう』と云ふのでも例の呑気な考へから『 よからう』と賛成した迄の事で、其後解散する時、大分自炊の不平を云ふてゐましたが 、遂自分から解散説を出さずに、仲間の誰かゞ主張したのに賛成したといふ事でした。
 
 尺八を吹くのは、友人間で大分評判高くなりましたが、実は本郷弓町に居た時に、僕 が教へたのが最初でした。直ちに小石川の何とか云ふ師匠へ附いて、本式に稽古したの で、見る見る上達して、名古屋の高等学校へ行ってる頃は、大分上手に吹いて居た程で した。
 
 あの男の最も得意時代は、新しい理学士として第八高等学校講師時代であった様です 。元来の専門が数学といふ堅いものでゐながら音曲、小説等も大分好きでした、常に『 謡曲は亡国の声調だ』といふて笑って居ましたが、熊本では謡曲を稽古してるといふ手紙 がありましたから、あの男の性格にも幾分変った所が萌して来たと思ふた事があります 。
 
 学校時代は中、高、大、と何れも平凡で、名古屋が得意時代で、熊本は又平凡なる先 生時代であった様に思はれます。而して総てに対して執著が無く、アッサリした性格で 、之れが為め大分迷惑した事が多かったのです。然しこゝ一番となると、常の様な態度 が一変して随分猛烈にタンカを切った事があった様です。よくそういふ事のあった後に 、僕の処へやって来て『あの時はほんとに困ってあった』と平気で居たもんです。
 
 あの男とは死ぬ迄、君とか僕とかの対話をした事がありませんでした。何時でも「ン ガ」「オレ」で居ました。立山家の人々が今でも不思議にして居るのは、僕の様な性 格と、あの男の様な性格と何に依って結合されたか、中学以来晩年迄、親密の度は少し も変らずに継続したかと云ふ事です。
 僕は元来気の利いた様なノロマで、あの男はノロマの様な気の利いた男でした。但し 無精な点は兄たり難く弟たり難しでした。
 
 色々思ひ出もあります。たゞ僕としては、天下の俊才は何ぞ立山一人ではありません 、日本にはまだまだ沢山ありませう。然し僕の平凡なる親友、否兄弟としては、天下あ の男一人です。人並ならぬ大きい体骨と皮許りで床の上に横っていました。大正七年八 月廿日、妻と一人の娘を残して、三十一年の短い一生をあの墓地に土化するのでありま す。 (大正八、五、四)

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