鹿友会誌(抄)
「第二十一冊」
 
△亡友追悼録「立山林平君」
○五、発病後の林平さん
 大正弐年?の年であった。帝大在学中の林平さんは、病を得たりとて帰郷し、病後、 保養中の僕を訪ねられた。毎朝夕、人生を語り、宗教を談じつゝ共に散歩した。館の立 山家の畑中に東家を建てゝ貰って、鹿角郡の一半を見下ろしつゝ茲でよく林平さん から星を指し、大陽を眺めつゝ天文学を説明された。
 注射治療で発熱でもすると、此道の経験家たる僕を呼んで、其経過を質された。其後 房州富浦、奈古等へ転地療養して、健康も立派に恢復したので復校手続をした。僕の初 めて達磨さんを贈ったのは、此転地中である。
 
 大正六年の夏、少々不快なりとて令閨をば熊本へ置いて、帰郷保養せられてあったが 、其九月熊本へ再び帰られた。丁度秋田市まで僕と同乗したが、林平さんの身の上を 何に付けて案ぜらるゝ母堂は、健気にも令息の新所帯を見守りせんと、熊本まで同道せ られた。折り襟の白地の洋服に、白靴、中折パナマを戴き、ステッキとコートを手にし たる当時の君は、林平さん姿を脱して、理学士高等学校教授姿を見せてあった。
 
 『行って来るよ!』『それでは御油断なく!』と別れたるは秋であったが、其後の通 信には『よい!』とのみ報ぜられたので、全く左様とのみ想ふて居ったが、突然(大正 七年の春)病重くして帰郷せる旨、報ぜられて実に驚いた。小坂病院中でも最も日当り のよい静かな病室に、健気にも数ケ月来の看護の疲れを顔にも見せず、能く病気の勢で 、八ケま敷くなる患者を手厚く扱ふ令閨ケン子夫人に看護せられつゝ、親しみの表情を 以て僕の見舞を受けられてあった。病気は咽喉に来たことをいふたのみで、病気に就い ては余り語らなかった。可なりの衰弱と見られた。僕も夫人も無言で涙組んで、神の如 き林平さんの愛女ユタカちゃん(二歳)迄は、ケン子夫人の膝の上に哭いて居る。
 
 僕の七戸に出張中であった。「林平さんの病気重し」と家内から手紙で報ぜられた。 然し急ではなからうとの註に聊か安心して、達磨さんの代りに、起き上り人形十二個を 見舞として小包で発送し、七月の末帰郷、御見舞いたすべき旨を附記した。七月末帰郷 予定の僕は、会社の急電に依り上京、我社仙台支部開設の件に就き多忙を極めたのであ る。仙台赴任の上は、是非帰郷、御見舞せんと思ふ間もなく、八月十日の夕方、君の逝 かれたる旨の電報に接したのである。
 
 あゝ、林平さんも逝ったのか、志郎君の側に、又柳太郎君の側に、何故!君等は僕に のみ生きることを強ひるのか?
 聞く、林平さんは其の臨終に際し、僕の帰宅を待たれ「中島君はまだ来ぬのか」と夢 の如く看護の人に問うたと云ふ。僕の七戸から送った起き上りの見舞人形十二名は、ハ ガキが先きに著いたため、日に三、四回も其の小包を待たれしにも拘らず、無情にも小 包は永眠の後に到着したとは、如何にも遺憾千万である。
 斯くと八月下旬、僕が慕しき林平さんを訪ねたる時は、既に仁叟寺の高台の墓地に「 正七位立山林平之墓」てふ五寸角に変って居った。噫々! (大正八年三月仙台にて)

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