鹿友会誌(抄)
「第二十冊」
 
△故 大里壽翁 追悼碑
 多年花輪町長として功労あり、生前畏くも勅定の藍綬褒章を下賜せられ、殆ど新花輪 の建設者とも称すべき故大里壽翁の遺徳功績を表彰して、後代に伝へむとの趣旨より、 現町長小田島由義、奈良忠男、關廣治、關善次郎、石木田小太郎、石木田新太郎、村山 喜四郎の諸氏発起の下に、本年七月、追悼碑を花輪町櫻山公園に建設されたるが、その 撰文を川口理仲太氏に、揮毫を長年寺住職川村眞明氏に依嘱し、碑石愈々竣成せりと、碑 銘の全文を左に掲ぐ。
 
  壽君大里氏碑銘
君姓大里、諱宗補、称壽、其先安保上総守、往古自京都、移鹿角郡、住大里村、子孫因 氏之、延宝中、遠孫宗久、仕于盛岡藩重臣中野氏、為世臣矣、
君天保四年七月廿日生于本郡花輪、初名秀助、後改今名考、諱宗模、妣大越氏、君天資温 厚、夙有徳望、安政四年継父之後、自側役進爲用人、
明治元年藩主転封白石也、入于平民、四年廃藩置県、郡属秋田県、於是任学校主簿尋為 戸長、六年副区長、七年創設花輪小学校、九年寄附小学読本四百巻焉貸与貧者之子弟 、以奨就学、既而為地租改正事務員、評定耕地等級論議百出難決、君尽力斡旋克得其 当、十一年任鹿角郡書記、十三年以病辞職、十四年挙県会議員、同年復任郡書記、十六 年辞任、十七年再為県会議員、同年任花輪村組合戸長兼学務委員、廿二年町村制之実施也、 選為町会議員兼参事会員、君明治五年以還専心図公益二十年如一日、校舎役場郡衙警察 署裁判所之建造、郵便局消防組之設置等、無一不頼、君力而其費多頁(三水+頁)子、 世人之義捐、君乃謀之衆々協賛、無不立弁雖基民心之厚非由君之徳望安能収、此好果君 以数献金寄物銀盃一個木杯十数個前後賜之如、賞金褒状不遑枚挙、二十五年七月遂拝受 藍綬褒章、県町村長之受賞此為嚆矢、越一年有詔振興海軍、君感激聖旨願献金於製艦費 中不聴而賜以感賞誠意之旨其忠誠図報効率如新、二十七年有志者銀盃以謝積年之勤労、 三十年復士籍、三十七年告老辞職、卜居于屋南爽豈(土偏+豈)之地、吟嘯自楽偶得病 、三十九年十二月三十日没、享寿七十有四、葬長福寺、
先塋事評于明治褒賞録君為人謹厚善与人交行事不苟故過鮮矣、曾父病君看護不解衣帯者 月余、人感其至孝、嘗奉旧主一族於其家、听夕敬事有年矣、人嘆称其高義雖、身在繁務 、胸中有余裕、夙喜俳諧、常与諸名家相唱酬、一眺乃其号也、 有集存干家配川口氏、生二男二女、而先没長均太郎夭、次禎次郎継家、後配太田氏、有 三男三女、曰、文五郎為医学士有声誉可惜中寿逝矣、四武八郎為法学士、任台湾総督 府法院判官、四周藏亦為医学士継兄乃志、可謂大里氏有子矣、茲年故旧胥謀欲樹石勤前 勲垂不朽令余酩々曰
 
奉承朝旨 勤劬執規 督励教学
以進民知 広図公是 事々皆熙
始終一貫 忠孝為基 函拝栄賜
藍綬銀卮 伝記布世 何須諛辞
勒銘貞石 為記功碑
  大正五丙辰初夏 川口直齊識

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