GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

米沢万陸(まんろく):米澤萬陸・米沢万六

 鉱業家、日立工業の基礎を築いた。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 日本鉱業界に革新時代を画す −
 その業績を高く評価された米沢万陸は、明治元年二月五日錦木末広に生まれ、同じ八年末広小学校に入学。 十二年卒業したが、この間に父の東十郎と祖父織右エ門が永眠し、生母と別居するなど不幸が続いた。
 万陸は生活のために、明治十四年柴平村の柴内小学校の教師手伝いとして働き、日給七銭を得ていたが、 生活が苦しく明治十七年小坂銀山分析所につとめた。
 
 小坂銀山は大阪の人藤田伝三郎が時の政府から払下げをうけ、明治十七年から資本金二十万円でこの事業を経営。 順調に続けていたのであるが、明治二十九年に至り銀鉱の埋蔵量乏しく、明治三十年の末には掘り尽くされる事が 判明した。さらに日本経済は銀本位制から金本位制に転向することとなり、銀価は暴落した。 明治三十年小坂銀山は六十万円の損失となって、銀山休山説が流れるに至った。
 
 当時の鉱山長久原房之助は、銀鉱製錬を銅鉱製錬に移向する方針を執り、金銀銅亜鉛を含有する黒鉱製錬によって 小坂は更正することを確信、その研究陣を結成し、米沢万陸を中心に日夜苦心の研究は続いた。
 当時の大学の教科書に黒鉱の名称のない時代である。独学専心よく勉学の日を積みつつ、製錬の幹部となっていた万陸は、 黒鉱の製錬のことにつき実施にあたり、試験に次ぐ試験を続け、製錬に使うレンガをまず新たに製産して、黒鉱、黄鉱、 硅鉱などの俳号によって、製錬可能とした。凱歌たからかにあがり、日本鉱業界に革新の時期を画するに至った。
 
 明治四十一年小坂鉱山所長となり、四十四年小阪を去って茨城県の日立鉱山に転じ、同鉱山分析課長となった。 万陸は生涯を勉学に捧げた篤学の人であるが、常に故郷の人々の恩を忘れず、報恩のことを心がけ、 故郷の話題となっていた。昭和六年六月二十九日永眠した。

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