GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

米沢岩吉:米澤岩吉

 農民のために尽くした社会運動家。「末広小学校校歌」原作詩者。「錦木中学校校歌」作詩者。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
 米沢岩吉は、明治十九年十二月、錦木村大欠の専助の長男として生まれた。 錦木小学校卒業後、毛馬内小学校高等科に学んだので、毛馬内町には友人が多かった。 明治三十二年三月卒業して農業に従事するかたわら、社会運動の勉強や文筆に親しむようになった。
 
 これより先、明治三十年の頃、小坂鉱山は黒鉱製煉を開始した。その煙の襲う所樹木は枯死し、田畑の収穫を減じ、 牛馬の流産や馬のヨロケ病で斃死するものが続出した。さらに小坂川の流水を潅水する水田は著しく減収するなど、 その損害のために、故郷を捨てて北海道や大清水に転住するものが多くなった。しかし、鉱山に働く農家は賠償金などを 口にすれば、解雇の怖れがあるので、無策のまま経過した。今日の公害問題そのものであった。
 
 明治三十四年、七滝村や小坂部落では、この煙害を呪う声があがった。それが鹿角北部と北秋田の長木、 青森県の碇ヶ関にも及んだので、遂に大衆運動によって解決することとなった。日本農民組合小坂支部が設置され、 川俣清音、可児義雄らが常駐したのは、大正中期のことである。そして大正十五年の春、流血の惨事となり、 鉱山と農民との間に負傷者を出すに至った。
 
 岩吉は終始この運動に参加し、小坂のほか尾去沢及び阿仁前田の争議を応援し、農民解放運動の中心となって活動し、 社会主義的な新風を鹿角郡に吹き込んだ。彼は常に理論的に談笑のうちに真実を求める態度を失わず、 同志と共に奔走した。末広部落に無害の水道を導入して田畑の増収を企画したのも、彼の立案であり実践であった。
 
 当時穏健なる社会主義者として信望のあった細野三千雄も、彼を「わが盟友」として信頼して 共同して事に当った。また彼は詩作に志し、美しい詩を残しながら、昭和二十八年五月病のため、遠逝した。

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