長年県政発展に尽くした。 参考(出典):「十和田町の先輩」
修太郎は、明治十五年十二月二十日、山本幸蔵の長男として生まれた。 秋田師範卒業後は、しばらく小坂や毛馬内小学校の教職にあったが、上京して井上円了の哲学館(東洋大学の前身) に学んだ。大正の初め小坂鉱山煙害問題が起こるや、小坂鉱山鉱毒除外期成同盟会を作り、内藤練八郎を会長とし、 中堅幹部として千三百人を動員して活動した。 大正九年九月推されて県議選に出馬して、最高点を以て当選した。これが最年少の当選者であった。以後昭和二十二年 まで連続七期にわたって当選して、県政に尽くした。その間県会議長を二期をつとめ令聞があった。 大正十四年摂政官が秋田にお出での時、県会議長としての奉迎文「東宮ニ奉ル箋」は内藤湖南の代筆にかかり、 名文と評価された。 また彼は原敬、榊田清兵衛らと親しく、中央政界とも連絡が深く、当時難航した湯瀬温泉駅の設置、十和田街道に 力を尽くした。晩年は新潟陸運局の道路委員(勅任待遇)として本県の道路行政に寄与した。余技として囲碁をよくし、 佐々木幸助六段の高弟の一人であった。昭和三十年二月二十四日脳溢血のたる没した。 修太郎の長男九郎は、第二代十和田町長として郷土発展に尽力した。
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