鹿角の近代人物伝 |
二十九年間の長きにわたり、(秋田)県政発展に尽くした人に、山本修太郎がいる。 修太郎は明治十五年十二月二十日、山本孝蔵の長男として毛馬内に生まれた。山本家 の先祖は、伊勢長島の戦いで織田信長に敗れて各地を転々としたいわれ、また三戸から 鹿角へ移ってからでも三百五十年連綿として続いてきた旧家である。修太郎はその第十 三代目にあたっている。 修太郎は毛馬内小学校、秋田師範学校を経て、三十六年に小坂・毛馬内小学校教員とな ったが、後、上京し井上円了の哲学館(現東洋大学)に学んだ。 大正初め、小坂鉱山の煙害問題が起こると、鉱毒除外期成同盟会の代表として大阪に 出張、数十日にわたる交渉を続け、その解決に尽力した。またこの時斡旋に当たった内 藤湖南や修太郎が七千円をもとに、貧しい学生を援助すべく木柝会モクタクカイが結成されて いる。また個人的にも志ある青少年に学費を援助して、人材の育成に努めた。 大正八年九月、推されて県議選に出馬し、最年少ながら最高点で当選している。以来 昭和二十二年まで七期当選を果たし、その間大正十二年、昭和六年の二期にわたり名 議長として令名をうたわれた。大正十四年、皇太子(昭和天皇)来県の際は、奉迎文「 東宮に奉る箋」(湖南草案)を朗読捧呈している。 修太郎は鹿角人には珍しい、スケールの大きな政治家だった。兵民宰相原敬や榊清兵 衛と親交があり、中央政界と連絡し、鹿角の発展に多大な貢献をしている。当時難行し ていた花輪線湯瀬駅の設置や十和田、不老倉両街道整備は、その力に負うところが大な るものがあったという。晩年は、新潟陸運局の勅使任官道路委員に任命され、秋田県の 道路行政に寄与貢献している。 余技として囲碁をよくし、佐々木幸助六段の肯定の一人であった。昭和三十年二月二 十四日脳溢血のため病没、享年七十二歳であった。 なお、山本家では昨年、膨大な古文書を(鹿角)市に寄贈したが、安永九年(1780) 建築の武家門と共に、鹿角市の貴重な文化遺産といえよう。 |