GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

楢山佐渡

 藩の爵を負て刑に就く。

参考(出典):「ウェブもりおか」ほか
 
 楢山佐渡(ならやまさど) 天保2年5月〜明治2年6月(1831〜1869)
 
 本名隆至(隆吉とも)、楢山帯刀(たてわき)隆冀(たかくに)の長男として生まれた。 楢山家は南部一門として代々家老を勤めた家柄で、佐渡も弱冠23歳にして家老職に就き、 後には主席家老として藩政の改革に奔走した。 佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆をおさめるために働き、 そんな佐渡を藩主利剛(としひさ)も厚く信頼した。
 
 1868(慶応4)年2月、旧幕府側と薩長側に揺れる藩の行く末を決めるべく、 佐渡は主席家老として京都へ赴いた。しかしそこで佐渡が見たものは、 権勢を得て横暴な態度をとる薩長の武士の姿だった。そのため佐渡は、 薩長の標的とされた会津藩と庄内藩への穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟 への参加を決意した。
 奥羽越列藩同盟に従った盛岡藩は、 同盟を脱退した秋田藩を(鹿角口から)攻めるも、官軍の援助を得た秋田勢に敗れ、 同年9月に降伏謝罪の手続をした。主席家老として佐渡はその戦争の責任を一身に受ける形となり、 翌年の1869(明治2)年6月23日、故郷盛岡にて切腹の形をもって処刑された。
 
辞世
 花は咲く柳はもゆる春の夜に うつらぬものは武士の道
 
 後に原敬は「戊辰戦争殉難者五十年祭」中で、“戊辰戦争は即ちただ政見の異同のみ” と祭文を読み上げ、当時の盛岡藩及び楢山佐渡の立場を語った。

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