鹿友会誌(抄)
「第三冊」
 
△雑録
 楢山佐渡君の一藩の爵を負て刑に就くや、其の賊名を負ふを以て石を建つるを許され す、二十二年憲法発布の際、大赦を行はれしに因て、旧藩人、碑を盛岡櫻山神社域内に 建て、其の行事を略表したりとぞ
 櫻山社は、旧藩祖宗を祀る処、もと藩の菩提所聖壽寺境内なり、其碑文左の如し
 
○楢山佐渡之碑
君諱隆吉。通称五左衛門。後改佐渡。考諱隆翼。通称帯刀。其先信房。実為我政康公 第四子。信房三世孫直隆。始以釆邑楢山為氏。世列老臣。君叔母烈子為藩主利濟公側室 。生利義利剛二公。以故幼為二公所匿(日偏+匿)。年甫十五。挙為側詰。累進為近習 頭。為人剛直。不狎寵栄。不喜奢侈。読書講武。毅然以国家柱石自任。利濟公知其可用 。命為国老。時年二十有二。黜姦侫。陟忠良。厘(未+攵+厘)革諸弊政。意為不可者 。雖公命不敢奉。当事蹇諤。輙忤公意。以故罷斥者数矣。而其除蠧害。澤士民。功続固 已不少。人或目為強項老。一藩依頼焉。外国事起以来。尊攘之説大起。至元治慶応。朝 野騒然。事勢切迫。徳川慶喜奉還大政。薩長二藩参朝議。朝廷命仙台藩討会津氏。我藩 出兵応援之。尋鎮撫三卿東下。総督軍事。於是奥羽諸藩連署。請宥会津氏之罪。総督府 却之諸藩謂。是皆薩長二藩所為。幼沖天子何与知也。乃同盟於白石城挙兵。曰除君側之 悪矣。当此時。君奉藩命在京師。目薩長藩士之挙作為暴横。聞奥羽挙事也。自大坂東航 。過仙台。見藩老但木土佐論事。竟見相合。直帰盛岡。会議三日。藩論一決。先是秋田 藩背盟約仙台庄内二藩挙兵進撃君乃与向井長豐。将兵二道並進。身先士卒冒矢石。陥十 二所。略大舘。所在克勝。我威大震。既而白川越後諸道連敗。米沢仙台二藩謝罪請降。 藩主命君謝罪。君慨然曰。事至此。天也。余且一死以代一藩。挺身至秋田城下。陳状表 誠。総督府諭還盛岡待後命。已而官軍入盛岡逮君護送東京。明年四月就刑於盛岡。実明 治二年六月二十二日。享年三十九。君固分死。其就刑也。頭墜地而目不瞑。人皆異之。 葬聖壽寺先塋。以其為刑死。法不得建碑。配小笠原氏。生二男。皆夭。三女。一嫁毛馬 内氏。一嫁宮部氏。一女太禰承後。今茲二十二年四月。朝廷許戊辰役死藩事者。再興家 名。君其可以瞑地下矣。有志者相謀。建石于城北櫻山神社戊辰戦死碑側使余銘。余嘗以 文字受君知。義不可辞。乃銘之。銘曰。
 
 嗚呼惟君 藩之閥閲 蚤繋名望 自任柱石
 歴事三世 為舟為楫 何為処変 遽謬順逆
 雖前遽謬 心則清潔 自古英雄 誰無疵欠
 心苟清潔 非可深責 恩命新降 罪名斯釈
 再興其家 永賜不絶 吾泣以銘 慰君霊魄
 
 碑高一丈一尺三寸幅五尺八寸厚一尺二寸、篆額は利剛公のせられしなりといふ、文中 、政康公は北條没落の際討死、身延山に葬りし右馬頭君の事なり、側詰とは太夫より挙 る近待にして、其の藩士より挙る小姓に別つ所なり

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]