日清戦争で活躍した。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 東亞の先覚 − 伍一は慶応二年五月二十三日毛馬内に生まれ、父儀平の厳格な家庭教育をうけて成長した。 明治七年七月当時創立の毛馬内小学校に入学したが、九歳のとき盛岡市仁王小学校に転じた。 十四歳にして東京に出て、攻玉社に学ぶこと三年、また島田篁村の塾に入って漢学を修め、 十八歳にして興亜校で清語を修めた。 伍一は夙に清国との貿易に着眼し、さらに東亞の形勢を察して上海に渡ったのは十九歳であった。 上海では海軍大尉曽根俊虎に従い清語を修めるかたわら、清国の事情を調査しついで楽善堂の荒尾精 の下で上海、漢口を中心として天津、北京はもちろん四川省から深く入り込み、軍事関係はもとより、 山川の形勢と人情風俗をくまなく調査し、精密な地図日記類を軍事当局に提出した。 これが参謀本部最初の「清国兵要地誌」の基礎資料となった。 その後蒙古から洛陽、長安を過ぎ漢口に達した。この間売薬商人となり、野に臥し、山に宿り、 あらゆる困苦欠乏にたえ、徒歩すること実に一千里にあまり、長江以北、支那本部に足跡があまねきに 至った。時に年二十四歳、明治二十六年遼東沿岸偵察の必要を説き、井上海軍大佐と共に「チーフー」 を発し金州半島から大孤山を経て、朝鮮沿岸各地の潮流や深浅などを調査した。 二十七年朝鮮に東学党の乱があり、やがて清兵の牙山上陸、ついて大島混成旅団の朝鮮派遣となり、 ついに支那との国交破るるや、天津においてひそかに同志と共に活躍し、小村大使、荒川領事の引きあげに際し、 独り居残り敵地の偵察に従い天津城内に潜伏中、ついに捕われ、二十七年九月二十日天津城西正門外において 銃殺の刑に処せられたが、従容として国難に順じた。時に年二十九歳。父儀平は東京麻布光林寺の墓地に伍一の ために碑を立て、みずから文を撰した。
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