![]() [地図上の位置→]
安東愛季(あんどうちかすえ・近季とも)は、出羽国の戦国大名、 檜山系安東氏の第八代当主で、安東舜季の子である。 愛季は、永禄7年(1564)から南部領に侵攻し鹿角郡獲得を目論むが、 これは同12年(1569)に石川高信に阻まれた。 参照1:鹿角歴史年表 参照2:長牛城の攻防戦(長牛) 愛季としては、鎌倉以来父祖相伝の地として守り続けてきた鹿角に、 南部氏が郡北の毛馬内、郡南の長牛・谷内・石鳥谷の各館にそれぞれ一門 を配したことは、これを南部氏の鹿角侵略とみなしたのであった。 一旦は鹿角は愛季によって侵略されたが、直ぐに三戸の南部信直ら (津軽石川城の石川高信なども)によって、秋田勢は退却させられた。 なお、このとき以降明治維新に至るまで、鹿角は完全に南部領となった。 即ち、 秋田の安東愛季は、檜山(能代辺り)を本拠地としていいたが、しばしば南部領 である鹿角に侵入してきた。 ところで秋田の安東氏とは以前は、津軽地方に強大な勢力を張っていたが、 南部14代善政のとき、安東氏の頭領安東盛季が南部氏と戦い、永享14年(1432)善政軍 に敗れて蝦夷地松前へ逃げていった。 その後、子孫の安東政季が秋田に戻り、檜山に落ち着き、檜山氏を名乗っていた。 政季の孫愛季が、このような経緯から南部氏に対して恨みを持ち、南部領への侵入を 狙っていた。 愛季はまず、毛馬内を攻撃したが、南部氏23代安信の弟秀範に撃退された。 永禄8年(1565)再び動き出し、南部氏家臣の大湯昌俊と大里豊前を巻き込んで 味方につけた。大湯と大里の領地は、毛馬内の北側と南側であるため、毛馬内の秀範 は間に挟まれて動きがとれなくなった。秋田側はこの封じ込め作戦に成功したので、 翌9年に鹿角攻撃に出た。 同年春、愛季が自ら兵五千を率いて、長牛正友の長牛城を攻撃した。これを聞いた 南部晴政は、石川高信の子田子信直を大将とし、一方井安正・沼宮内治部・田頭左衛門 などに出陣を命じ、鹿角に援軍を送った。愛季は、前後から攻められたために形勢 不利とみて退却した。 同年7月愛季は、重臣浅利氏(比内城主)に谷内城を攻撃させた。城主長牛友義 (正友の子)は善戦して、これを撃退した。 同年9月愛季は、石鳥谷城の長牛正友を攻撃した。正友は僅かの手兵では守りきれず、 長牛城に撤退した。 翌10年(1567)10月15日愛季は、大高主馬に命じて六千の兵をもって再び谷内城を 攻撃させた。16日には民家に放火したりして混乱となり、鹿角援軍は城を出て戦ったが 敗れ、各武将らは三戸へ退却してしまい、遂に鹿角一帯は檜山軍に 占領されてしまった。 晴政は永禄11年(1568)、鹿角一帯を奪還するために鹿角討伐軍を組織し、 大々的な戦闘を展開した。 晴政は自ら総指揮をとり、小豆沢別当阿部刑部左衛門に案内させて、三戸と岩手の 二方面から鹿角へ進行してきた。 その一方は石川高信を大将とし、三戸と田子から来満峠を越えて大湯に向った。 また一方は九戸政實(九戸政実)を大将とし、その先鋒には長牛友義がなり、 七時雨山から田山を通り、三ケ田方面に向けて進んだ。 両将とも奮戦し、敵の諸城や館を攻めて檜山軍を踏み破り、遂に鹿角一帯を 奪還した。これが、鹿角恢復戦争とも言われている。 |