0451長牛城の攻防戦(長牛)
 
    参考:八幡平地区老人クラブ連合会老人大学学習記録集「八幡平伝承ひろい」
 
 織田信長全盛時代の永禄七年(1564)、秋田近季の攻撃を受けた長牛城は、良く防御
して追い返したが、再び永禄九年に、大挙して長牛城を攻め掛けたが防備が堅固で容易
に陥落せず、攻防両兵対陣して、文を交換したと言われている。
 
 秋田勢の文に、
  長牛はせたくれ牛にそも似たり
   あぶにさされて尾をぞふりけり
 
 そうしたところ、城中から返歌があって、
  あぶが三つせたくれ牛に喰い付いて
   尾にてひしがれしょうこともなし
 
 このようにして対陣したが遂に秋田勢は対陣を解いて、長牛城を去ったと言われてお
り、その後永禄十二年、南部侯二十六代の信直公が来満峠を越えて鹿角入りし、鹿角に
越境している秋田近季の軍勢を追い返し、南部・秋田の戦は終局を遂げたと言われてい
る。
 
 
0451長牛城跡(長牛)
 
                参考:鹿角市史編さん委員会発行「ふるさと散歩」
 
 かつて鹿角と比内(北秋田郡)との往来は、巻山マキヤマ峠で結ばれていました。長牛ナゴ
シの古道フルミチを、真金山マキヤマの銅を運ぶ牛がゆったりと夏井や袰部ホロベ峠を目指し、そ
の同じ道を田植え上がりになると、峠を越えた大葛オオクゾ(北秋田郡比内町)の人達が、
寝巻を背負って八幡平の湯治場へ向かいました。
 この秋田からの鹿角の関門に当たる要地を、長牛が抑えていました。初め秋元弾正左
衛門が館主で、後に南部一門の一戸イチノヘ摂津守が代わり、長牛氏を称しました。戦国の
世に鹿角は屡々秋田氏や浅利氏の侵略を受け、長牛は最前線として戦禍に曝サラされまし
た。特に永禄九年秋田近季は阿仁比内勢を以て進攻、序で自ら兵五千を率いて再び攻撃
し、我が軍は長牛館に籠城、翌十年には六千の大軍が押し寄せ、鹿角由来集に拠ると、
「敵味方死人手負テオイ血ながれ城より西堂カ沢の小川水赤くすわうのごとく候ゆえすわう
河とハ申候」
と云う有様でした。
 今、分館脇から左へ入ると八幡館(北館)、右手を上ると本丸跡と思オボしき辺りに空
壕カラボリが入り組んで見えます。もっと上手カミテのぜんじょ館を本丸とする言い伝えもあ
り、他に柳(矢投げ)館や南館、遠矢トウヤ平、旗見平などが並んでいます。
 
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