佐庄物語「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」

△南部領分退去窮民の親分田ノ畑村喜蔵の物語
南部美濃守は、大老南部弥六郎を以て仙台に迎へたる、九戸軍閉伊郡窮民の 親分田之畑村喜蔵太助に面会して、承りたる其不思議なる事由を汝に示さんに、 予は、獄舎に在ること既に三年、利剛、母の三回忌法事執行功徳として、 野田代官所え追放の言渡しを受け、護送人は代官へ引渡し、代官は村役へ予を預けたり。 予、想ふに、野田郷は、他郷に異なり。人民一揆の起る毎に、 一層激烈を加へ、土地柄極めて人心猛烈なるべしと想ふに反対して、 人心頗る穏順質朴なり。土地東は海岸にして、西は山嶺にあり。 田地甚だ僅少にて、飯米は沼宮内の市に招く。平常土民は、樹の実、昆布、粉稗麦を以て 常食とし、事業は蚕産、鉄山砂洗、薪炭、塩漁業、海草採取して行とし、 以て生活に供し、然るに此郷村より起こる一揆は、容易に鎮撫し能はず。 其故を予、視察したる。 土地広しと雖も、山岳多くして、耕地無く、海面広しと雖も江湊無し。 常に波濤の荒き疾風の激しきとに、海業の日稀なるを以て、海山物の収得、甚だ少額にあり。 蚕産の如きも、一畝の桑園も無く、山谷の桑葉を以て飼養に充るを以て蚕糸の産額甚僅少なり。 然るに城下に在る役人等は、至貧を福有と誤り、人民ん用金の負担の重き、如何に努力するも、 充納する能はず。人心爆烈するは、事実源因なればなり。 予は、其年の陰暦十永津の初めに、一丈有余の雪道を踏み、尋て田ノ畑村喜蔵が宅に至り、 面会するに、其当時六十余の老人にして、人も通はぬ山路、殊に十二月の大雪を踏み分けて、 喜蔵が住居を尋て来るは、殿の廻し者か道連もあるかと、大に怪しみたるを以て、 予は然らず、予は鹿角の佐庄なり、予は三年以前に殿の強盗に罹り、親子牢舎せられ、 彼の淫婦三回忌法事功徳之為めとて、此野田郷に追放を受け、 悲の中の幸にも三閉伊の親分喜蔵老人に面会し、仙台迄行て帰りたる直噺を聞きたさに尋ね来り。 此所は東の果の海辺故に雪も薄く、予が故郷は是より西北に当る山の中にて、 今頃は二丈三丈の雪は珍敷ことは無しと答へたれば、 喜蔵は大に喜悦して、上座に新しき筵を敷き、予を迎へて、敬礼を篤くし、 飯は粟稗飯に鮮鱈海草の汁にて饗応を受け、其親切徳実、真の樵夫にて、 無学文亡、毫も他念無き、天然固有の正直の物語一揆の魁首たりしも、 毫も人を誘引したるに非ず。人に依頼せられたるに非ず。
 
其徳行を聞に、神諦院様の御世には御用金も無く、大平にて海には風もなく、 浦々大漁にて殊に海草も繁り、貝類も沢山に上り、諸方より買集めの商人も集り、 何所の浦も何所の村も困窮する者なし。 山には栗も樫も木の実沢山に出来、栗は商人に売り、樫の実は食料に充て、 何所にも一人として銭無く食物無しと云ふを聞く事無く、 山畑の御高に係る御定役金は、直き上納にて、父は村役の時、老後の噺にも成るものゆへ、 父の名代として村中の御定役金を集めて城下へ上納に出て、 御城の奥にて、鯛の御吸物に御酒を頂いて帰り、父に語り、 殿様は神様よりも難有ふ思ふて居るに以の外、神諦院様の御逝去の後は、 殿様の早代り始り、喜蔵が一生に殿様五代の代替り、其度毎に御用金のみ重く相成り、 人は貧乏するほど不自由相成り、海には漁も無く、海草も生ぜず、山には栗樫の実も減少し、 其上に鉄山師は栗樫の木を炭に焼き、万々御用の多き中に、鉄山師は、城下役人へ 賄賂を遣へ、御用の名目を借り、南の方は室場鉄山へ、北の方は翁沢鉄山へ鉄砂炭薪の 運送方、各村人役に当て、無賃銭に相務め、我々は自家入用薪樵る暇さへ無く、 父が建替へて呉れたる此家屋、雨の洩るのも、飯料あれば村方の交りに金は費さずとも、 容易に屋根替出来得るをも為し兼ぬるは、年々幾度も仰付らるゝ御用金に苦み、 父は村長を勤め、其子の喜蔵はいかに年老へぬればとて、一族手を引き、 乞食をして道路に餓死するも恥かしく、一層江戸え出でゝ、乞食非人となりて、 都の花を見ながら道路に餓死するとも、故郷に知る者なければ、 故郷に恥を欠くこと無しと決心して、家を出るや、村中我も我もと一夜の間に数千人集り、 跡へ戻れば一揆と成って首切らるゝ外なし。是非なく進行し、道を御役人に拒まれ、 脇道へ廻る毎に人数相増す。 若者共を制したれども、鉄山を打壊し、鍬ケ崎産物押買所打壊はしたる迄にて、 若者共に相諭し、宮古山田を経て、大槌町に至りたれば、数万の人数に相成り、 案外に驚き、此大事に及び、何れも南部領境を打越へ、仙台領内に入れば、 帰り度も帰る事成らず、早々帰るべしと、小児の如く諭して、袖を分け、 江戸表指して進行の道中、仙台に於て差留に相成り。 御諭を蒙り、止むを得ず滞留中、南部弥六郎へ御引渡に相成り、 帰村したることにて、初より毫も強訴の念なく、事実生活途方に苦み、 立出でたるは彼の始末に至りたる。天当自然為せる業にて、喜蔵が為せし業に非ず。 其天当自然の為せる業とは、老人に察する所ありや。 予、之を問ふに、喜蔵云ふ、悪漢共謀、大膳大夫利用を毒害して、 利剛の父は僧徒より成り上りの実説より、利郷は甲斐守を害したる迄の物語りに、 南部家亡ふるは近きにありと、喜蔵直接の明言、大に予、感ずる所ありて、 記憶に存せり。 喜蔵は老樵夫にして数万人の首と成る。才幹技倆有せし者に非ずと雖も、 天命人の悪を制する、此の如し。汝、之れを知るや。 土民をして汝の悪を制せらる、数十回也。

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