△悪人に信義無く悪人に孝子無し 悪漢、臨終を知らず。故南部信濃守利済は、貧生庶人より成り上り、 身に金玉絹錦を装ふと雖も、生涯下郎の根性を脱する能はず、 死に臨て極蕩の梅毒に帯下、生肉腐敗して道路に斃る。 非人乞食、餓死同然の有様を示して、知命に死没したる由也。 利剛氏は、父病中一切面会をもむためさずして、見廻金として金弐両弐分、則贈りたるに止め、 患者、甘きを欲するも、小遣の金無く、価壱銭の菓子さへも食する能はずして、死したりと、 予の聞く所にて、利剛氏の不孝、予、大に憎みたる事あり。 利済既に死没に及ぶと雖も、政府の御咎め中にて、公然葬式を営む能はずして、五十有余日を経過して、 蟄居御免の恩命を蒙り、江戸表より帰国道中、十四日の間死屍の臭気、公衆の鼻を穢す。 生前、不義無道の栄花、終りに臨みて肉体腐敗して疾苦に斃る。 尚ほ死屍に六十余日至恥至辱を挙げたるは、何の因果と云うや。 又利剛氏の実母にしては、生涯の快を多妾に奪はれ、其身排斥の身に悲み、 不平の淫酒に長じ、自得の業病に罹り、腹部張満の疾苦、知命に斃る。 予は、安政四年巳閏五月二十日の夜、実父と倶に獄舎に繋留せられ、 既に憐むべき境遇に在て、利剛の挙動を怨みたり。 同年十一月に至り、利剛の実母に蒙りしは、豈意外に想へり。 則利剛の父母に不孝なる事実は、既に世に示し、 利恭氏、如何し麼如何ん古人の諺に悪獣の子は成長して父母を喰ふと云ふに照依して、 予、甚だ怪む者也。 |