△盛岡義士浅石市太郎南部鉄五郎を討て窮民を救はんとす 淫欲極蕩南部信濃守利済、江戸参府を犯し、不治疾病と偽り、国元に於て隠居を願立、 其当時政府に先例なきを以て、病状容体検使として政府御使番三宅市右衛門医師、 同道下向の砌り、土民生血、夥多賄賂を以て危篤の患者と診断せしめ、 国元に於て隠居御聞届相成り。 嘉永元年申六月甲斐守信侯君へ家督相続被仰付、甲斐守、道中略式を以て帰国相成り。 領内十郡の土民城下に群集して、参着を観視、万歳を唱歌し、代替りに就きては、 制度の至惨至酷の苛政一変して、渇望の如く士民安堵の眉を開んと期し、同年八月十五日 八幡宮神事は甲州入国の初祭り参詣を観視せんと、領内の老若男女の群集、山を為せり。 而して重陽に移る光陰の交代と共に、隠居信濃守、賄賂の危篤病速かに全快し、 士民の者へ、隠居と称するを禁令して、以後少将様と称し、若大守様を以後大守様と称する事、 廻文を以て士民百般に交付し、秋風と共に大奥は、三百の女中、及妙齢蓄妾、少将様附、 栄華極蕩、其登城の体を視れば、面部は細眉に野郎頭、吉原遊郭の太鼓持男芸者に異ならず、 一層目立て、甚しき者は蓄妾中随一の愛妾小寺吾妻の舎弟小寺三五郎、横浜求之助也。 大奥少将様附輩に反して中奥は、甲斐守を始として附役の質素、膳部は一汁一菜とし、 主従綿服着用、節倹に力め、公務軍役の整理示諭したるは、故障の原因と為り、 抑も生母の側に在る鉄五郎、及大老以下大奥に登城烈しき近習頭田鎖左膳外用人等、 少将様御内密御用として江戸の往返の急なる人民苛役用金、一層重きを加へ、 幕府老中阿部伊勢守屋敷へ金品を贈る進物の莫大なるを以て、諸人前知し、隠居利済は父として、 甲斐守の愛を絶し、公務上の関係を禁令して、殆んど若隠居の如し。 不穏の有様を現し、一年を経て、甲斐守信侯、参府の期春三月、国元出発するや否や、 鉄五郎、参府公布し、且甲斐守病気と幕府に申立置、道中に於て毒殺して、死屍を国許え 引戻すべしと医師江畑春南に命令し、若し成らざれば、江戸表に達する迄、 道中にて乗物より外に出ださず。強て乗馬する事あらば、手錠打て戒しめ、江戸表参着否や、 甲斐守へ隠居被仰付、鉄五郎え家督相続仰付らる。 手続隠謀は、寺社町奉行浅石治左衛門長男市太郎は熟知し、密かに党を引て、 仙台境草木の中に潜伏して、大逆無道鉄五郎の通行を各壱砲に討て、 土民の渇望に達せんと用意相整へたりしを、同党の壱人裏切、密告に因り、 俄かに鉄五郎出発延引して、盛岡より花巻え逮捕方数多派遣し、義士市太郎、染太郎始め各党逮捕 拘引して牢獄に拘留し、昼夜の別無く残酷拷問に及、彼れは惨刑に死せしよりは、 拷問苛責に死するの覚悟を極め、飽迄素志を吐露せず。名を強訴に転じ、各永牢に処断し、 然る後ち、鉄五郎は夥多の護衛を配置して、盛岡出発し、甲斐守信侯隠居願済を隠密に附し、 謀殺を巧みにし、江戸盛岡の間に、昼夜早追往復の声激烈なる中に、近習頭田鎖左膳、 一層目立て諸人縮々して息を呑で恐怖し、三人集る者あらば拘引して糺問に附し、 城下市中の者、戸外に出る者無く、江戸屋敷に於ては、甲斐守附用人安宅登の吐血即死、 奥医師江畑春南は青網にて包みたる乗物にて牢邸に参着するや、御内意を漏洩したる無調法に付、 身帯家屋敷御取上、揚屋入り申付ると言渡し、即春南、獄屋に縊死し、 舎弟五郎は脱走して行衛を隠す。 人民用金即納を命じ、苛酷に徴収し、黒暗の世途人民鳴声の中へ、大守様御隠居、 鉄五郎殿御家督、美濃守様と御改名被仰付、向後大守様を大々守様と、 美濃守様を大守様と奉称候旨、士民一般に公布し、南部利剛自ら人民に示し、 天下の大計を乱したる悪漢とは是なり。 |