佐庄物語「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」

△南部鉄五郎実兄謀殺未遂私擅監禁十七年
甲斐守信侯は、生母の側に在らず。 幕府の側を奉じ、幼年より江戸に在府し、文武を学びたる達人なりと、 領内士民に名望を博くしたる人也。 内室は井伊掃部頭直亮の姫君にて貞列、領内に聞えあり。 領内飢饉に際し、持参の諸道具を売却して、窮民の救助に命じたる事実あり。 窮民、道路空地空屋に餓死夥多なるを目撃して、今日に知るものなり。 甲斐守信侯は、江戸表麻布屋敷に利敬君の故室浅野家姫君孝寿院殿の側に成長して、 徳義を養成せられたりと雖も、利済の蓄妾、及利剛の讒言悪漢、謀て、家督在国一年の後、 不治疾病者とす。隠居せしめ、入国の翌年より江戸表に十有七年の久しき密室に私擅監禁したるは、 大日本諸侯の中に於て、例なき事なり。 毒手謀殺を免がれ、側用人安宅登、毒味吐血即死と医師江畑春南の自白縊死等、今日にあらば、 社会に如何に論ずるものと知るや。 利剛氏挙動、我日本帝国、今日刑典の与論に昇らば、容易の件にあらざらを知る。 相馬事件、一時社会囂然たるを以て聞くも、汝、知るに足る可しと、予は信ずる也。 毒手を以て人を謀殺し、又は嫡子を廃して二三男を家名相続せしむるを、盛岡の人は、 少将様流と云ふ。旧領に悪習を遺して、汝は今日に社会の風俗妨害する者なり。 予、其少将様流、全滅を望む。毒手は昔、奥州の銘物得意に、予、大に怒る。

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