佐庄物語「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」

△僧侶修礼南部利用を毒手謀殺死跡横領陋声隠蔽の原因
南部利済は、卑賤油売妻女毒婦の腹に出生し、毒婦情夫茶坊主の人種を妊娠して、私生の男子也。 毒婦は、願教寺境内へ捨子に、住僧は取揚、養育して、小僧と為し、名を修礼と云ふ。 後年、悪漢共謀詐欺を逞ふし、遂に南部家横領して、盛岡弐拾万石の城主と成る。 修礼、出生以来の実を蔽はんと、取揚養育を受けたる老僧追放して、配所に没す。 領民の生血徴収して、盛岡願教寺の一大伽藍一己建立して、門徒心信を売る。 実を偽て諸人の目を驚かしめ、然りと雖も、其以前、願教寺は貧寺にて、 修礼は、境内墓所の掃除に至る迄、之を為したる事実口碑と、毒婦姦通に人体出生の原因、 及修礼の成長の実伝、消滅する能はず。 利済、之を消滅せしめんと、苦心防禦に奸略を尽すと雖も、 百般蜜語、恰も人の口に戸を建る能はざる如く、一般の者、評して源氏数代連綿血脈断絶したるは、 第一、一大凶事南部家没落近きにありと、家中安き心なく、 其説の止まざるを、九戸郡福岡町住人、下計米秀之進(下斗米秀之進か)なる逆意門人を語合、 鹿角郡花輪町より秋田領十二所扇田大館町徘徊し、津軽越中守、帰国通行の道筋難所に潜伏し、 以て津軽越中守を討て、弘前城を乗取り本城とす。 延て隣国に討出でんと相謀り、秋田津軽の領境矢立峠に於て、津軽越中守の通行に砲発、 狼藉に及ぶと雖も、叛謀達する能はず。 同徒逃亡、産地え帰村、潜居中、南部家にて逮捕、密室に隠蔽し、首謀下計米秀之進は、 江戸苅豆屋茂右衛門方に潜伏して、名を相馬大作と偽り、幕府の探偵、早くも大作を捕縛し、 江戸町奉行の尋問に当り、相馬大作、頓智を以て言を左右に託す。 主人南部大膳大夫利用は、父の死跡相続被仰付、乗り出し、無位四品にて登城之砌り、 従四位侍従津軽越中守の末席に座し、元家来なる者の末座末席に座したるを遺憾とす。 終に病を発して非命長逝の主人南部大膳大夫利用、鬱憤を晴さん為め、 主敵津軽越中守を其儘に差置き難く、故主南部利用の仇を報ずるに、 手練の銃を以て、討果したるに相違なし。 最早此上は如何様なる刑に処せらるゝと雖も、異議無しと答弁して、死刑に処断せられたり。 同時非常、相馬大作の評判、諸国に高め、南部家の忠臣義士と、路席軍談流行、 且実録と唱へ、雑書著作し、悪漢等の南部大膳大夫利用を毒手謀殺の説、 交代して何となく止みたり。 下計米秀之進は、頓智を以て後世の名誉に遺し、此機を幸として、利剛の実父、 暴漢南部信濃守利済は、天下の大刑人下計米秀之進を以て、南部家の忠臣と尊称し、 其霊を祭祠して、盛岡八幡宮境内に一神社を建立し、幸光社と名々して、 下計米秀之進の家名を立て、新知行百石授与し、下計米深しと称し、以て該社の別当に任じたり。 此下計米深なる者は、悪漢修礼、則盛岡城主従四位下左近衛権少将南部信濃守利済の 御側御用人高等の席に進み、後、南部美濃守利剛参府に随行し、 江戸大地震に遇して、夜中櫻田邸に於て、家屋圧倒の下たに焼死せり。 大逆無道の子孫、天誅免る能はず。盛岡士民、手を打て驚きたり。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]