御愛撫の国民に対す南部利恭の如き自ら尊大に構へ、旧国主と自称し、
御愛撫の人民を軽蔑して、嫉妬に人民に害を試る如きは、
人躰を禀て生存する者の為し得べき所為にあらず。
彼れ南部利恭の性を尋ぬれば、彼れの祖父なる者は油売■
又坊主上りの国賊大名南部信濃が孫なる事実、別項に掲ぐる如き彼れ改心の念無く、
強盗的破廉耻不知の行為に止まり、斯の如き心得違なる者は、
華族会館の設けある上は、一般の華族諸侯に於て御注告を加へられ、
若し頑冥にして容れざるに於ては、華族の交誼を絶交し、成規を以て彼れを戒め、
華族諸侯は貴族の品位を保護せらるゝは、社会に対し至当の義務あるものと思惟し、茲に拝陳す。
畢竟、臣民の上位に立する華族は、人爵に頼みて、反間軋轢を以て官吏を左右せんとするが故に、
又此新弊を模矩して良民望外の放言壮語、恣にする者起り、官吏にして伝心を容れ、
法律を左右して国民を曲庇するあり。
人民は又憤怒に政府を批難する者起りて政治運動と唱へ、官吏を罵倒する者起り、
詔勅の御主意に反抗して国民の本分は、
忘失する者醸生するは毫も下位の臣民より施す者にあらずして、
悉皆上位臣民の施す所なり。
忠実武勇の子孫、変じて不実不忠の異域に附近するを、予、甚だ恐る。
故に臣民の上に位する大名華族は、愈以て良心を磨き、忠君愛国の志意奮起して、
国光に副ゆるの要素表現して、一般人民の活眼に示され候はゞ、
人民は頗る慶福を得、以て大名華族の徳義に帰するの外なきを信ずるなり。
南部利恭利剛等の如き、予を指して、彼れは旧領の百姓なり、旧主の恩も知らず、
不忠者なりと云へば、予は聞て荅ふるに、然らず。
予は、多額貢納者にして屡々御用金貸上金と称へ、金穀を彼れに与へ、救護したる者にて、
毫も南部家の恩を受けたる一例無し。加ふるに彼れは、予の財物を強奪したる泥棒なり、
強盗なり。泥棒は実兄を押込め、不義の財禄を横領したる者也。
屡々実兄に毒手謀殺を試みたる名高き者也。
利剛の父は、修礼と云真宗の坊主上り也。彼れは、実父なる坊主を殺害し、
而して又主を毒手謀殺したる国賊の名高き者也。
利剛は、本系正真血脈の者を隠蔽して、坊主上り修礼の孫を以て本系血脈の者と偽り、
詐欺を以て朝廷の恩賜を騙取したる賊徒也と明言するに外ならず。
彼れは不実を以て予を罵倒すれば、予は実を以て社会に答ふるの理由を知るものなり。
故に貴族たる者は、其身其言を慎まざるべからず。
彼れ予に対して不忠者と云へば、大に彼れに利あるものゝ如しと雖も、
予は国賊の下に服従するは、取りも直さず国賊兇賊の手下の如し。良心以て許さず。
甚だ忌み穢らはしく思ふまゝに、兇賊の支配地を去て、皇都に赴く、純全たる皇土の良民也。
予、想ふに兇賊に忠なる者は、国家に対する不忠にて、則ち皇土の兇賊也。
然るを国賊兇徒等に不忠者なりと云はるゝは、予は毫も社会に愧ざるものなり。
彼れは則ち大悪無道逆賊朝敵の大罪は、前書の通り天下の刑典に於て其刑を執行せられたるも、
国民の財産強奪、民事に係る責を、予の訟求に対し、彼れは罪の有無に関せず、
人民の生命財産を奪ふは、一般大名と同様の所置なりと、
公けに官に答へ、大名華族の名誉を害して例となせり。
予は之を大名華族に申告して、与論に訴ふる所以は、則今日の大名華族なる者は、
国民を謀故殺して国民の財物を強奪為したる野賊強盗の子孫なる者の如し。 予は維新以前、江戸に在ては各藩邸留守居役定府用人に就き、 南部美濃同様の先例各諸侯領分に於て有るや否やを確め候と雖も、 日本国内に於て南部利剛の如き兇賊強盗の一例を知らず。 列侯留守居役なる者は隔意無く、交際一定の規約を以て、小藩と雖も年功者に上席を与へ、 屡々参会、内政公用の申合を為し、在所に通達為したるものなり。 古今嶋津公毛利公は、銘家の名誉依然継続せられ、皇室に対し其偉勲功績、社会公衆の知る所なり。 後世の新大名は、皇室に対して奉公の成功あるを知らず。 恩賜を得て華族に列し、特に待遇を蒙り、自ら恐入を愧るを知らず。 手を空して徒らに走光するを諸人の眼の前に明かにせり。 従て我等は、大名華族に望むに、衆望に負かざらんこと切望して止まず。 自ら尊大に武家大名華族と自称しながら、剣を手にせず、銃を握らず、 武の一字は何れに属するや。維新以前の如く、今も同様の高官を望む如き、 明治文明の聖世に在ては、無技倆にして得る能はざるは、空官なり。 然るに今にしては、侍従少中将宰相官職を望むの技倆は、何れにありと知るや。 武家華族愈々大なる決心を以て、勅令御主意に基き、臣民本分の愛国心と奉公の義勇心とを以て、 真実の名誉を迎ふ決心堅固にせられ、軍籍に入り、各君祖先の遺例に服従候はゞ、 永遠天地に愧ざる可し。 我等は、我等祖先の遺例に従ひ、我天賜自由の為め、我が権利の為め、 兇賊の暴漢を督責する所以なる者は、即ち同胞社会平和を永遠に維持せんと欲するより他に一の 目的なき此の督責に於て、我等は、唯だ父母の霊と事を共にすること、 我等祖先の労力に対する義務として、南部利恭を其儘に措く能はず。 此攻権を得たるは、則明治文武大聖至仁天皇陛下の恩給なり。 此の恩賜を待て、予は怨仇兇賊、利剛利恭等に生を与へ、予も今日生を存したり。 予は慶応元年三月十八日丑の刻、生地出発、花輪米代川稲邑橋を渡り、 稲邑大権現神前に九拝して、此佐藤屋庄六は誓ふるに、今上皇帝詔勅の恩を蒙り、 竜顔を拝するにあらざれば、再び此橋を渡らずと祈誓して歩を進め、 翌十九日宿泊所に於て里程を算する六十三里にあり。将に神と共に歩行為したる吉兆を弁知して、 今日に動ぜず。 諸侯以て予の血熱を賞嘆し、兇賊悪漢を済度して貴族の品行永遠の保護あらば、社会の慶福也。 予、以て武家大名華族に祈望す。敬首 明治二十七年十一月 |