佐庄物語「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」

如此事件、今日爰に起ると雖も、社会公衆異口あるべからず。 然るに南部利剛は、聖恩に奉答する道を講ぜず。皇帝に対して逆賊なり、 又国民に対しては、財物の強盗兇漢なり。 然るに此細大なる兇悪を改むる念なく、新縁者の軋轢に頼みたるは、 恰も悪食不潔より起こる黒死病(こくしびょう。ペスト)に際し、良医良剤を撤去して、 手療治北海道産物大熊胆を服用するものに異ならず。 又之れ官吏に頼み公法を曲るは、竊かに自宅療治を求むる者に異ならず。 心得違にて悪漢を補助したる。 彼を視るに政府部内の官吏と信ずる能はず。 凡そ官吏たる者は、華族にもせよ平民にせよ、善悪を分析して、 常に公正を旨とするを以て百僚官吏と信ぜり。 然るに然らず、官吏たる自ら人の侮りを招く。 故に南部利恭の如きは又、官吏を左右し得をるゝものゝ如く、卑視して自ら尊大に構へ、 一私を愛して国家を愛するを知らず。妾婦の如く常に嫉妬の念を抱きて嫉妬に苦み、 華族は皇室の藩屏たりと詔勅せられたるに、奉答するの道を知らずして、 公家華族に特別恩賜に故障し、宮内大臣閣下に向って、大名華族総代を以て質問書呈し、 新聞紙に載せて社会に公けにしたるを、一読して慨嘆を極む。
予、祖先より封建の浮世に苦み、終りに臨て南部利剛の為めに財物強奪の難に罹り、 将に生を危ふし生を幸に今日の聖世の安寧の鴻恩、徹頭徹尾に感慨に堪へず。 皇恩を想ふ外なく、惟ふに上古より三韓の征討に列聖親征せられ、 数代聖天子帝業に御苦労遊ばされたる御聖徳の尊き寔に万世一系の天皇、 御統治在らせ玉へる御邦柄、何等の事蹟にも帝室の御関係なきもの無く、 尚ほ北海道及青森盛岡秋田三県の如きも、渡島同然の蝦夷にて一千百年以前に、 桓武天皇雄図坂上田村麿将軍の武略を以て、内地蝦夷は全く平治に帰し、 内地陸奥北郡七戸を以て日本中央と確定、元標建設せられたるを、 土人、之を壺の石文と云ふ。伊達武衛、土地を隠蔵する為め、元標没したるは、 則七戸壺村なりと、土人の口碑あれども、南部家は此掘採をも試みず、 再建の念もなく経過し、御遺憾ながら渡島蝦夷地は、荒復に差置かれたるをも、 皇図翼賛し奉る者無く、終に荒復の儘政権返上為したり。
 
王政復古、帝業御組織御廟議中、叡慮意外、関東の兇賊蜂起に付、御親征に就ては、 関東の大名一区域領境を軍事要害と称へ、道路の険阻他領人の出入往来を警戒し、 其困難なる賊地へ御親兵を進行せられたるは、今日の譬にあらず。 其当時は御一新の当始、而かも初月にして今日の如き一切の軍備無く、 道路は大砲一門の運送にも数百人の人夫を悩まし候程の有様にて、 今上天皇陛下恐れ多くも、御聖念を悩ませられたるは、 今日の御遠征よりも一層御苦労遊ばされたる事実を熟視したる。 我等、惟ひ奉るに愚かなる言の葉に尽す能はず。 斯る御多端なるにも拘はらせられず、 列聖の御遺志を詔勅せられ、北海道渡島の開拓に成を告げさせられ、 畏くも今上天皇陛下列聖の帝業、先帝御遺志に帝業御統治に分時間、 今日迄大御心を安きに置かせられず。 畏くも恭く惟ふに、叡聖文武明治天皇陛下御即位、王政復古の大詔を煥発為在候や、 五事を以て神明に誓ひさせられ、億兆安撫、国威宣布の詔勅を垂れ給ひ、 嗣後御誓文に依り、内外に参じ、古今に徹し、文武宵肝日も足らず。 経営進取の国是国威の宣布を図らせ給ふ上にも、 明治廿二年にして立憲政体を創建被為在、皇室典範を垂させられ、皇祚無窮、 皇国無彊の御代に遭遇し、冥護に加るに聖詔中、我が祖、我が宗が臣民祖先の協力輔翼に倚り、 我帝国を肇造し、以て無窮に垂れたりと宣り給ふ。 斯迄国民に名誉を賜り、予、恐懼惜く能はず。難在余齢の躬、砕身して皇恩に奉答の一念に止むる。 而巳今や畏くも東洋の平和を図らせ、今日は九重を出御在て、玉体を大本営に進ませられ、 御遠征在らせらるゝは、恭くも恐入りて奉感佩候外無之。 大政以還以降、廿七年を以て七百年にして成らざる天業一大階級を被為進候。 今上陛下の御鴻業の神速に、世界万国の帝王、国に例あるを知らず。 大名華族諸侯は如何に推考し奉るや。

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