右之詔勅宸翰に対して関要の列侯、死を以て誓へ奉るも、関東の諸侯は反復して、
我至仁天皇陛下の詔勅に背き、愈以て英国公使云ふ、乞食変じて強盗力を現し、
即ち南部利剛の如き逆賊の輩を、今日の文明に開化したる諸君の活眼を以て見る時は、
如何に裁断を下だすや。 閔氏は朝鮮一国の閔氏也。南部利剛は奥州北隅僻邑の閔氏なり。 然りと雖も、今日朝鮮閔氏の刑と、逆賊南部利剛の刑とは、其寛大なる比較の論にあらず。 之即ち左に掲げて諸君の一読を乞ふ。 明治元年戊辰十二月 詔勅の写 賞罰は天下の大典、朕一人之私すべきに非ず。 宜く天下の衆議を集め、至正公平、毫釐も誤り無きに決すべし。 今松平容保始め伊達慶邦等の如き百官将士をして議せしむるに、 各小異同ありと雖、其罪均しく逆科にあり。宜く厳刑に処すべし。 就中、容保之罪、天人共に怒る所、死尚余罪ありと奏す。 朕、熟ら之を按ずるに、政教、世に洽く、名義、人心に明なれば、 固より乱臣賊子無るべし。 今や朕、不徳にして教化の道、未だ立ず。 加之七百年来、紀綱不振、名義乖乱、弊習の由て来る所久し。 抑、容保の如きは、門閥に長じ、人爵を仮有する者、 今日逆謀、彼一人の為す所に非ず。 必首謀の臣あり。 朕、因て断じて曰、「其実を推て其名を恕し、其情を憐んで其法を仮し、 容保の死、一等を宥め、首謀の者を誅し、以て寛典に処せん。 朕亦、将に自今、親を励精図治教化を国内に布き、徳威を海外に輝さんことを欲す。 汝百官将士、其れ之を体せよ」。 十二月 今般、松平容保等御処置之儀、天下之衆議被聞食候処、刑典に於て可被処厳科、 奏聞有之候え共、宸断別紙之通被仰出候、就ては詔書之趣、各篤く奉体可有之被仰出候事。 十二月七日 行政官 南部利剛 松平容保追討に付、至重之勅命を蒙り候処、竊に両端を持し、賊徒に通じ、遂に反復し、 属王師に抗衡し、恣に箱館守禦の番兵を引揚、官府の兵器を破毀し、剰へ官舎を自焼し、 凶暴を逞ふし、今般伏罪に及と雖も、天下の大典に於て、 其罪難被差置、依之城地被召上、於東京謹慎被仰付候事 但叛逆首謀之家来、早々取調可申出事 同人へ 今般城地被召上、於東京謹慎被仰付候処、出格至仁之思召を以て、 家名被立下、更に十三万石下賜候間、血脈之者相撰、早々可願出事 但土地之儀は追て被仰出候事 南部信民 宗家南部利剛之指揮に随ひ、王師に抗衡候条、大儀順逆を不相弁次第、其罪不軽、 屹度御咎可被仰付之処、出格之思食を以て、領地之内千石被召上、隠居被仰付、 家名相続之儀は血脈之者へ可被仰付候事 但相続之者、早々可願出事 明治二年己巳二月八日 御沙汰書写 大関美作守 南部彦太郎旧領別紙郷村高帳之通、今般其藩へ取締被仰付候、兵乱之余、 人民疾苦之情状被聞食深く被為痛聖念候に付、兼て民政相心得居候、 家来精撰致彼地出張申付、朝廷之御政体に基き、人民撫育に厚く心を用ひ、 御一新之御趣意洽く貫徹致候様、可取計旨御沙汰候事 但地所之儀は南部彦太郎へ懸合、早々受取可申事 南部彦太郎 其方旧領之内別紙村書之通、先般津軽越中守へ取締被仰付置候処、 今度被免右代り大関美作守へ取締被仰付候間、地所早々引渡可申候、改て御沙汰候事 同十二日 御沙汰書写 南部彦太郎 其藩儀、先般出格至仁之思食を以、寛大之大所置被仰付候処、其後旧藩領農民共、 旧主愛慕之情実を申立、段々会計官等へ訴状差出し、且多人数徒党致し、末家南部遠江守へ 歎訴及び候趣、甚だ以如何之事に候、右は兼て被仰出候、詔書之御趣意を奉体認、 昨年以来之始末を反省致候得ば、 此上、朝廷へ奉封対御配慮不奉掛様如何様にも鎮静方可有之事に候、 其辺厚相心得、此末不都合之次第無之様、屹度取締致し、早々城地引渡候様、可致旨御沙汰候事 |