幻の郷士・野尻左京
 
七、山の目小平治と野尻左京
 一大の豪農を誇った野尻左京は、不思議なことに、吉祥院の過去帳に載っていない。 左京の父母があり、左京の子と孫もあるのに、何故か左京の戒名が欠けている。これは 頂度二代目小平治が、「御無心被仰懸、御山取返被遊」とあるように、南部藩に御銅山 を取りあげられ、一の関へ引きあげた時の事である。
 
 山の目小平治が正式に尾去沢銅山を稼業したのは元禄年間であるが、白根金山など実 際に鹿角の鉱山に関係したのは延宝の頃からである。当初小平治が鹿角へ進出して来た 時、製錬に要する莫大な薪炭をどう調達しただろうか。当然上の郷に大勢力を持つ左京 家に頼んだものと考えられる、小平治が創建した一の関の竜沢寺に、これを裏づける記 録があると聞いているが、実地調査に果たせないでいる。これ等の金銀銅は、一方は吉 田清兵衛や伊勢の人中村又右衛門によって舟で能代に運ばれ、一方は山を越し北上川を 舟下しして上方へ送られた。尾去沢の産銅は、西道を野尻に至り、ここで荷を整え、板 戸の沢を越えて湯瀬街道に出るか、熊沢川を上って兄川を経て新町へ出る道をとったも のと思われる。八幡平中学校から三百米程上流に牛渡りの地名が残って居り、板戸越え の牛方道の跡もある。左京家が豪農であったばかりでなく、銅山御用商として溶鉱炉の 薪炭を供給し、一方産銅の輸送販売によって富を築いたことであろう。多量の廻銅を荷 造りする左京家は、弓鉄砲槍で屋敷を堅めなければならなかったのである。
 
 山の目小平治が罪を得て失脚するや、小平治と深い関係にあった左京も、当然鹿角に 留まることが出来なくなることは、十分考えられることである。左京夫妻が吉祥院の過 去帳から忽然と姿を消したのは、こうした事情によるものと推定される。

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