幻の郷士・野尻左京
 
八、大葛金山の荒谷家と大谷の阿部家
 比内町大葛に南部八幡平から槙山(真金山とも)を越えて来たと伝えられる家に、金 山の荒谷家と大谷の阿部治兵衛家があり、共にこの部落の総本家である。
 
 荒谷家については、次の伝承が伝えられている。何時の頃とも時代がはっきりしない が、荒谷家の先祖が生国南部陵陸中の国曙を捨て、真金山を越え比内大屑金山のあたり にたどりついた。鉄砲を持った見慣れない旅人に、見張番は警報の太鼓を乱打した。夕 食の酒にほろ酔気嫌の坑夫達が、「それっ曲者だ」とばかり旅人夫妻をとりかこんだ。 漸く一方の血路をひらき、本沢向いの山頂に逃れた。殺気だった坑夫達は、今一息と押 し寄せて来た。今はこれまでと傍の桜に九曜紋の提灯をかけ、松の巨木に身をかくし、 寄せて来る坑夫達へ火縄銃を打ちかけた。この勢にさしもの坑夫達も降参し夫婦は無事 金山に到着した。こんなことからこの夫婦は金山の山先をつとめるようになった。この 山先こそ、明治廿五年から二期衆議院議員をつとめた荒谷桂吉家の先祖である。この 木を忍び松、提灯かけの桜といったが、何年か前に枯死したとのことである。
 
 左京の後裔である小坂の三ケ田家、尾去沢の阿部家の家紋は七曜であるのに、荒谷家の紋は九曜紋であり、又 荒谷家の先祖は、九戸方の勇将工藤右馬之丞であるといって居られることから、荒谷家 と鹿角から姿を消した左京夫妻と結びつけることは無理であるかも知れないが、余り にも符節することが多く、左京の伝承との結びつきは十分に考え得ることである。
 
 次は大谷の治兵衛家である。阿部家は南部鹿角から真金山を越えて来たと伝えられる のは、荒谷家と同じである。阿部家は、はっきりと野尻左京の分れであると伝えられて 居り、幕末までは、屋根の葺き替に南部から七十人も手伝いが来たといわれ、極く最近 まで阿部左三郎家、三ケ田家、尾去沢の阿部左一郎家と親類つきあいがあったとの事で ある。尚独鈷小松家に伝わる由緒書では、先祖阿部某は、九戸政実の臣で、戦をさけて 大葛に移り住んだとあるが、比内の旧家の多くは、系図に九戸残党説をとったものと見 える。阿部家の墓地も調査したが、確かに元禄から正徳にかけて移り住んだと思われる 墓石が残っている。

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