幻の郷士・野尻左京
 
六、伝説の野尻左京
 左京は一人だけの名前ではない。野尻家で代々襲名して来た名前のようである。古く は左京大夫ともいって、白欠に平九郎十一代、長五郎九代と、二十代も以前に分家した 家があるといわれている。
 
 野尻家の最盛期は、元禄から正徳にかけてであったらしい。宝永三年二月十日に死ん だ父と正徳九年になくなった母へ、それぞれ醒相軒、心性軒の軒号を追贈し、正徳五年 には菩提寺吉祥院の本堂を寄進したと寺伝はいっている。当時の棟札が保存されている が、証拠となるような事は記載されていなかった。伝承によれば、この本堂建立に当り 、野尻から吉祥院まで真っすぐな道を通し、米代川は舟渡しして材木を運んだといわれ ている。
 
 左京の全盛期には、野尻から花輪へ出るのに、一歩も他人の土地は踏まなかったとい われ、道筋には多くの百姓が土下座して迎えたと伝えられている。左京は沿道 の百姓へ、かごの中から銭を与えたので、花輪へ下る往来は、何時も貧しい百姓でいっ ぱいになったとの事である。又野尻家では、門から玄関まで弓鉄砲槍などの武具がずら りと並べてあったと伝えられている。一体どうしてこれだけの富を維持し、又物々しい まで屋敷をかためなければならなかったのか、多くの疑問が残るところである。

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